A級戦犯とされた7人を散骨した飛行機が離陸したのは - 産経ニュース

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A級戦犯とされた7人を散骨した飛行機が離陸したのは

現在の若葉町。滑走路の面影はない=横浜市中区(宇都木渉撮影)
現在の若葉町。滑走路の面影はない=横浜市中区(宇都木渉撮影)

先の大戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で死刑判決を受けた東条英機元首相ら一方的にA級戦犯とされた7人の遺骨について、米軍将校が「太平洋の上空から私がまいた」と記した公文書が見つかり、話題を呼んだ。それによると、昭和23年12月23日、7人の遺体は東京の巣鴨プリズンからトラックで横浜市内に持ち込まれて荼毘(だび)に付され、飛行機で海に散骨されたという。その飛行機が飛び立ったとされるのが現在の商店街「イセザキ・モール」近くにあった滑走路だ。今は跡形もないかつての光景を探った。

これまで東条元首相らの遺骨の行方ははっきりとしたことが分からず、長年、「昭和史の謎」とされてきた。今回、明らかになったのは、7人の処刑とその後の遺体の取り扱いについて現場責任者を務めたというルーサー・フライアーソン米軍少佐による極秘文書だ。内容は以下の通り。

かつては滑走路が

〈少佐は12月23日午前0時すぎ、巣鴨プリズン(東京)で7人の死刑執行に立ち会った。遺体を乗せたトラックは午前2時10分、巣鴨を出発し、1時間半後に横浜市内の米軍第108墓地登録小隊(現・横浜緑ケ丘高校)に到着。午前7時25分に小隊を出て、30分後に同市の火葬場(現・久保山斎場)に到着した。

遺体は午前8時5分までにトラックから直接、炉に入れられた。火葬後、別々の骨つぼに納められた7人の遺骨は、第8軍の滑走路に運ばれ、「横浜の東の太平洋上空を約30マイル(48キロ)地点まで連絡機で進み、私が遺骨を広範囲にまいた」〉

公文書には市内の3つの施設が登場する。うち、最後に出てくる「滑走路」だけが作業が行われた時間が明示されておらず、やや謎めいた感じを残している。

1枚だけ写真が

戦中、横浜市は複数回にわたって空襲にさらされ、なかでも昭和20年5月にあった横浜大空襲で市街地は壊滅的な被害を受けた。市によると、GHQ(連合国軍総司令部)はそうして焼け野原となった横浜市中区若葉町の土地を接収し、滑走路を作った。

当時の姿を示す貴重な写真が、横浜市史資料室に1枚だけ残されていた。平たい土地が広がるなかに小型の飛行機が2機写っている。周囲には建物がほとんどなく、滑走路の奥の方には京急線の高架が横に走っているのが確認できる。

人気デュオのゆずが、かつて路上ライブを行っていたことでも知られるイセザキ・モールで、婦人洋品と洋傘を取り扱う「むさしや津田商店」の津田武司さん(82)は、小学1年のときに横浜大空襲を経験し、終戦後に伊勢佐木町周辺が米軍人らの使うプレハブ住宅「カマボコ兵舎」で埋められてゆく様子を目にしている。その一角にあったのが、この滑走路だった。

ジャック&ベティが

「B-29といった大きな爆撃機が飛び立てるような大規模なものではなかった。軽飛行機を1日何度も見かけました」と津田さん。GHQは、のちのち指導者たちの墓がつくられ、彼らが神聖視されるのを避けたい意図もあって散骨を行ったとの説もある。

そうであるならば、少佐らは遺骨を一刻も早く手放してしまいたかったに違いない。7人の遺体は久保山の火葬場で焼かれた後、滑走路に運ばれると、速やかに飛行機で海にまかれた、と考えるのが妥当なのだろう。

現在、若葉町は飲食店が入る雑居ビルやマンションなどが立ち並び、接収解除直後の27年にオープンした映画館「横浜名画座」が、平成の初頭に「シネマ・ジャック&ベティ」と名前を変え、営業を続けている。

滑走路だったことの名残が分かるものが見当たらないそのまちを、若い女性が幼子の手を引いて歩いていくのが見えた。明らかになった「昭和史の謎」は、令和の社会に平和の尊さを訴えているように思えた。(宇都木渉)