香川県東かがわ市は70以上の製造業者があり国内シェア9割以上を占める「手袋のまち」だ。東京五輪では金メダルを獲得したフェンシング男子エペ団体の3選手のほか、ゴルフ代表の3選手も東かがわ産の手袋で大会に臨んだ。また、侍ジャパンのバッティング手袋も同県三木町と東かがわ市の「香川産」だ。なぜ、四国に「手袋のまち」が生まれたのか。その起源を探った。
松山選手の専属職人
五輪ゴルフ代表の4人中、松山英樹、星野陸也、畑岡奈紗の3選手のグローブのブランドは「スリクソン」。OEM(相手先ブランド製造)を行ったのは、東かがわ市の会社「ハシセン」だった。
橋本庄市社長(64)は「柔らかさやフィット感、伸びにくさ、汗で滑らないなどのさまざまな要求に応える素材の開発が重要です」と話し、大手の化学繊維メーカーと共同で部位ごとに最適な素材を模索しているという。
プロ用の製品は東かがわ市の本社工場で製造しており、松山、星野両選手には専属の職人がいる。職人により縫製の仕方が違い、仕上がりが全く変わるためだ。
松山選手が平成25年に用品契約して以来の担当が、縫製一筋55年以上の山下多美子さん(71)。メーカーの用具担当者を通じた細かい要求に応えていくが、松山選手はグリップ側の生地がやや厚めでクッション性のあるのが好みという。
橋本社長は「生地の厚みが0・1ミリかわるだけでクラブのグリップの太さが全く違うように感じる繊細な世界だ」という。
選手に寄り添って
それだけに、山下さんは「季節によって春用、夏用と要求が変わってくる。晴天用と雨天用でも違う。ミリ単位で同じ仕上がりになるように細心の注意を払う」と話す。
松山選手は一般のプロの倍近い年間約500枚使用するので製造は大変だが、山下さんは一枚一枚丁寧に仕上げている。
橋本社長は松山選手の銅メダルをかけたプレーオフをテレビで見た。結果は残念だったが、「従業員にとって画面に手袋が映ったり、いい成績を残したりするのが喜び」と話した。
一方、金メダルを獲得したフェンシング男子エペ団体では高松市出身の宇山賢(さとる)選手ら4選手中3選手が東かがわ市産のグローブを着用。世界一を裏方として支えた。ほかに男女フルーレや女子エペの選手も。
惜しくも予選で敗れたが、パラリンピック車いすフェンシングの阿部知里(ちさと)選手(高松市出身)も5年前から付き合いがある。
時代に翻弄されながら
なぜ、東かがわ市は手袋のまちになったのか。歴史は明治にさかのぼる。
日本手袋工業組合の代表理事でもあるハシセンの橋本社長が調べたところ、明治19年、白鳥村(現東かがわ市)の千光寺副住職、両児(ふたご)舜礼(しゅんれい)が15歳年下の19歳の近所の女性と駆け落ちし、21年に大阪でメリヤスの指無し手袋の縫製を始めたのがきっかけのようだ。
当時衰退していた地元の製塩業従事者らを救済するため、両児の急逝で後を継いだ親類が32年に会社を設立し、地域を挙げて手袋産業に乗り出した。
1914(大正3)年、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)で、当時最大の消費国、英国が最大の生産国ドイツと敵対したことで、英国から代替生産国として日本へ大量注文が入り、多くの工場もできた。
第二次大戦後、高度経済成長期の大量消費社会の中で手袋産業も昭和30年から活況になった。37年に日本手袋工業組合が設立された。現在は県内56社を含む66社だが設立時には加盟248社、下請け550社の規模を誇った。
46年のドルショック以降は輸出が激減し、内需拡大へ方向転換。高級化やファッション路線、スポーツ用と多様化が進み、カバンやニット製品などにも進出した。平成になると、国内で商品開発や営業活動、海外で生産という国際分業の形が確立する。
現在は「手袋のまち」として全国的な知名度を上げるためのPR活動や、自社ブランドの立ち上げ、海外販売の模索など、さまざまな挑戦を続ける。時代に翻弄されながらも地域に根付いた産業が、スポーツ界を支える力にもなっている。(和田基宏)