異論暴論

正論10月号好評販売中 五輪で浮かび上がったこと 批判が招いた一体感の欠如

国立競技場近くの五輪マークのモニュメント=7月16日午後、東京都新宿区(鴨川一也撮影)
国立競技場近くの五輪マークのモニュメント=7月16日午後、東京都新宿区(鴨川一也撮影)

東京五輪開催の是非をめぐる論争は、アスリートの活躍が国民に大きな感動を与えたことで開会とともに鳴りを潜めた一方、日本政府や大会組織委員会への批判はくすぶっている。団結を象徴した1964東京五輪とは打って変わり、57年後の東京五輪は一体感を欠いたイベントとなった。

コロナ禍の不安を払拭するのがリーダーの務めであるとすれば、日本の指導層からそのような覚悟が発信されることはなかった。スポーツジャーナリストの二宮清純氏と登山家の野口健氏は対談で、菅義偉首相の発信力のなさを嘆く。

五輪反対で政府批判を煽(あお)ったマスコミ報道もひどかった。経済評論家の上念司氏はマスコミの体質が日露戦争時に経済的に困窮する国民を煽ったときと変わらないとする。「当時の新聞も政府の対応を批判するばかりで、現実的な対案は示さなかった」

一方、無観客開催が奏功した面があると民俗学者の大月隆寛氏は指摘。情報環境の発達で雑音のない臨場感を味わうことができただけでなく、海外から評価されたスタッフ、ボランティアを含めた同胞意識の萌芽(ほうが)がこれまでにない「公共」のあり方を示したという。早稲田大学非常勤講師の大場一央氏は、大嘗祭(だいじょうさい)を引き合いに国家と国民の一致団結の重要性を思想史的な観点から考察した。(楠城泰介)

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