【書評】『我が産声を聞きに』白石一文著(講談社・1815円)47歳、夫の背信と向き合う - 産経ニュース

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書評

『我が産声を聞きに』白石一文著(講談社・1815円)47歳、夫の背信と向き合う

非常勤の英語講師をしている47歳の名香子は、ある日突然、7歳年上の夫・良治から別れを告げられる。良治が初期の肺がんを告知された後、2人でランチを食べていた、その席で。呆然(ぼうぜん)とする名香子を店に残したまま、良治は「なかちゃんより何倍も好きになってしまった」という、その女性の元へと立ち去ってしまう。

一人娘の真理恵は大学進学を機に独立。研究職に就いている良治と2人、経済的にも安定した穏やかな暮らしが、これからも続いていくはずだったのに。名香子の日々を脅かすのは、忍び寄る新型コロナウイルスの猛威だけだったはずなのに。

行きずりの暴力にも似た、夫の背信に、名香子はどう向かい合うのか。物語はここから、彼女がたどってきた道を浮き彫りにしていくのだが、その過程で、一つの言葉が明かされる。「私は、恐れないから大丈夫」

名香子にはかつて婚約を破棄された辛(つら)い経験があるのだが、その婚約者が心変わりした相手の女性が口にした言葉だ。深夜の一人歩きを心配する彼に、そう言い放ったのだ、と言う。

長い間、胸の奥にしまっておいたはずのその言葉が浮かび上がってきたとき、名香子は自分の中の〝恐れ〟に気づく。そして、自分が向かい合わねばならないのは、この内なる恐れなのだ、とも。

同時に、読み手である私たちも、実はどこかに恐れを抱いて日々を送っていることに、ここで気づかされる。この辺り、物語巧者である作者の構成が、絶妙だ。未知のウイルスはもちろん、病、貧困、老い、等々…。私たちを取り巻く世界は、不安と恐れに満ちたものでもある。それでも、それらと向き合いつつ、人生を進んで行かなければならないのだ。

物語の中に登場する句集が、名香子の心の支えになる、というのもいい。とりわけ、名香子の心に響いた「初みくじ凶なり戦い甲斐ある年だ」という一句は、先の見えない新型コロナウイルスとの日々に疲弊した私たちをも、鼓舞してくれている。

私たちは何度でも産声を上げられる。恐れを知らない、生まれたての赤子のような産声を。読み終えたとき、本書のタイトルが胸に響く。

評・吉田伸子(書評家)