【この本と出会った】『ハリネズミと狐『戦争と平和』の歴史哲学』バーリン著、河合秀和訳(岩波文庫・704円)大作家にも葛藤あり 文筆家・編集者 吉川浩満 - 産経ニュース

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この本と出会った

『ハリネズミと狐『戦争と平和』の歴史哲学』バーリン著、河合秀和訳(岩波文庫・704円)大作家にも葛藤あり 文筆家・編集者 吉川浩満

学生時代、世界の大長編小説を読むのに熱中した。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』、プルースト『失われた時を求めて』、マン『魔の山』、大西巨人『神聖喜劇』…。どれも通読するのに骨が折れたが、幸福な読書体験だった。

吉川浩満さん(本人提供)
吉川浩満さん(本人提供)

そのなかで唯一、どうにも釈然としなかったのが、トルストイ畢生(ひっせい)の大作との誉れ高い『戦争と平和』である。決して面白くなかったわけではない。宝石のような描写がいたるところにある。私の不満は、そこにトルストイ本人の歴史に関する持論が長々と、しかも繰り返し差し挟まれる点にあった。あの完璧な『アンナ・カレーニナ』の作家が、どうしてこんなことをするのだろう。まるで宝石箱に砂を詰めているようではないか、と感じられたのである。

そんな私の疑問に答えてくれたのが本書である。バーリンは、ギリシャ詩人アルキロコスの断片「狐(きつね)はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことを一つだけ知っている」を紹介し、作家たちをハリネズミ族と狐族とに大別する。ハリネズミ族は、世界に関する普遍的・包括的なビジョンを追求する一元論者である。それに対して狐族は、世界の存在者が有する個性・多様性をあるがままに描き出す多元論者だ。

バーリンによれば、ハリネズミ族にはダンテやドストエフスキーやプルーストが、狐族にはシェークスピアやプーシキンやジョイスが属する。このリストはいくらでも長くできそうだ。たとえば、ゴッホ、コッポラ、ストーンズがハリネズミ族なら、ピカソ、スピルバーグ、ビートルズは狐族である。単純な区分ではあるが、考えていくうちに、これは作家だけでなく人間一般を大別する最も深い差異を表す区分なのではないかと思えてくる。

では、トルストイはどうだろうか。それが問題だ。トルストイはこの二分法にうまく当てはまらないのである。なぜだろうか? バーリンはこう診断する。トルストイはハリネズミであることを熱望する狐であった、と。彼は『戦争と平和』において普遍的な歴史的ビジョンを提示しようとした。だが、彼の天分はそうしたハリネズミ的能力よりも、個々の事象を描写する狐的能力にあった。この矛盾、彼の信念と彼の才能との間の激烈な矛盾が、『戦争と平和』をあのように不可思議な怪作にしているのだ、そうバーリンは論じるのである。

本書に出会ってから、私は『戦争と平和』にもトルストイという作家にも深い愛着を感じるようになった。そうでありたい自分と現にそうである自分との間の葛藤は、私のような凡人にはおなじみのものだが、トルストイのような大天才にもそれがあったというわけだ。少し慰められると同時に、人間とは実に難儀なものだとの感を新たにするのである。

【プロフィル】吉川浩満

よしかわ・ひろみつ 昭和47年、鳥取県生まれ。慶応大総合政策学部卒。国書刊行会、ヤフーを経て文筆業へ。晶文社で編集業も行う。文筆家・ゲーム作家の山本貴光とともにインターネット動画チャンネル「哲学の劇場」主宰。近著に『理不尽な進化 増補新版』(ちくま文庫)。

『ハリネズミと狐』は『戦争と平和』を素材に文豪トルストイの歴史観を探り、思想的源流に迫る。