男子エペ団体準決勝で韓国に勝利し、喜ぶ(左から)山田優、加納虹輝、見延和靖、宇山賢の日本チーム=幕張メッセ
男子エペ団体準決勝で韓国に勝利し、喜ぶ(左から)山田優、加納虹輝、見延和靖、宇山賢の日本チーム=幕張メッセ

東京五輪で金メダルを獲得したフェンシング男子エペ団体。快挙の裏には4選手中3選手が着用し、絶大な信頼を寄せるベテラン手袋職人夫婦との固い絆があった。「手袋のまち」とも呼ばれる香川県東かがわ市で工房を営む夫婦は「五輪チャンピオンは私たちにとっても最高のプレゼント」と口をそろえ、高松市出身の宇山賢(さとる)選手らが金メダルを携えて報告に来る日を心待ちにしている。

金メダリスト、宇山賢選手から贈られた五輪着用のグローブを大切そうに眺める細川勝弘さん=8月19日、香川県東かがわ市
金メダリスト、宇山賢選手から贈られた五輪着用のグローブを大切そうに眺める細川勝弘さん=8月19日、香川県東かがわ市

サプライズの贈り物

東かがわ市で工房「スケルマ」(イタリア語でフェンシングの意)を営む細川勝弘さん(75)、かずゑさん(72)。自宅兼工房の一角にはフェンシンググローブが飾られていた。宇山選手が五輪本番で着用し、「世界一のグローブ! 2021・7・30」などの文字とともに本人のサインが入っている。

五輪閉幕の数日後に郵送で届いた。「修理ではないし、何だろう」と開けるとサプライズの贈り物だった。夫婦のグローブを中学の頃から使い続けている宇山選手からの特別な計らいに「本人にとっても宝物のはずなのに」と、思わず感極まった。

フェンシング日本代表チームとは家族同然の仲といってもいい。エペ団体では宇山選手、見延和靖選手、山田優(まさる)選手がスケルマのグローブを使用。加納虹輝選手も「少し前から使っている海外製のフィーリングがいいので今回はこれでいきます」とわざわざ言ってくれたという。

チケットが当たり、当初は観戦に行く予定だったが無観客に。五輪当日は工房を閉め、わが子を見守るようにテレビ観戦した。五輪への提供は4大会目だが自国開催の五輪で画面にグローブが映っているのを見て感慨深かったという。

宇山選手は1回戦の米国戦の途中で見延選手と交代で出場。勝弘さんの目には動きがいいと映り「いけそうな流れ」とは感じ「五輪前は銅ぐらいはいけるかと思っていたが、まさか金とは」という最高の結果に。

型抜き機を使い、フェンシンググローブのパーツを作る細川勝弘さん=8月19日、香川県東かがわ市
型抜き機を使い、フェンシンググローブのパーツを作る細川勝弘さん=8月19日、香川県東かがわ市

宇山選手がリザーブとなったとき、勝弘さんは「海外選手がやり慣れていない変則スタイルなので必ず出番がある」と確信。五輪前に「悔しさを試合にぶつけろ」と声をかけると「分かりました。思い切っていきます」ときっぱり答えた。「途中出場は難しいのだが悔しさをばねに最高のプレーだった」とたたえた。

決勝戦の勝利まであと2点となる43点を取ってからは万感の涙でよく覚えていない。「日本代表とは十数年。みんな子供の頃から金メダルを目標にして頑張ってきた。これまでの代表選手らの姿が浮かび思いが込み上げた」。かずゑさんも「小さな工房で自分たちが作ったグローブでの金は最高のご褒美」と喜ぶ。

試合の2日後に宇山、見延両選手からそれぞれ電話があり、祝福すると「落ち着いたら報告に行きたい」と返ってきた。「顔を見てゆっくりと話を聞きたい」と、楽しみに待っている。

重視するのはジャストフィット感

勝弘さんは約60年前に手袋工場に勤め始め、昭和63年に独立。防寒用などを製造していたが、平成16年頃、フェンシング選手だった次女の夫に頼まれ、海外製を買ってきて見よう見まねで試作した。

18年に商品化すると、高校総体で使用した4校のうち1校が団体、個人で優勝し、たちまち評判となり各校から引き合いが殺到。中高生から手紙や電話で「指が動かしやすく、もう他のグローブは使えない」と感謝されるのが何よりの励みだ。

重視するのは、ジャストフィット感。大量生産の海外の既製品とは異なり、各選手の指の幅や長さなどの細かいサイズに合わせ、約30ものパーツを縫い合わせることで細かい動きが可能になる。試合時間が経過するにつれ握力がなくなるので曲げやすい柔らかさも重要だ。種目によっても求められる特性が違うので部位によって素材を使い分ける。

夫が作ったフェンシンググローブのパーツを慣れた手つきで縫い合わせる細川かずゑさん=8月19日、香川県東かがわ市
夫が作ったフェンシンググローブのパーツを慣れた手つきで縫い合わせる細川かずゑさん=8月19日、香川県東かがわ市

エペでは全身のどこを突いても有効なので手が一番狙われやすく、ユニホームと同じ色にして目立ちにくくしたり手の甲側は剣先が滑って突けないように滑る素材にしたりといった具合だ。

日本代表には18年に江村宏二監督に頼まれて提供を開始。バルセロナ、アトランタ両五輪出場の市ケ谷広輝さんとともに試行錯誤を繰り返し、太田雄貴さん(北京五輪銀)、千田(ちだ)健太さん(ロンドン五輪銀)ら歴代代表選手らの意見を取り入れて進化を続けてきた。

勝弘さんが型抜き機でパーツを作り、かずゑさんがミシンで縫い合わせる、息の合った連携プレー。手間がかかり1日4、5枚がやっと。作られる数は決まっており、質を落としてまでも増やすつもりはない。視力が衰え、一日中の立ち仕事もしんどくなってきた。金メダルの数日後、勝弘さんには「15年の節目、最高の結果で引退」という思いが一瞬よぎったというが、宇山選手らからは「3年後のパリ五輪も」と切望されている。(和田基宏)

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