文芸時評

9月号 資本主義の矛盾と芸術 早稲田大学教授・石原千秋

早稲田大学教授 石原千秋
早稲田大学教授 石原千秋

留学生と話していたら「中国は資本主義国家ですよ」ときっぱりした口調で言った。政治体制など問題ではないという含意があった。その一言で、僕はいまだに冷戦期の思考にとらわれていると悟った。それは民主主義と資本主義を一体のものと考える思考だ。民主主義的思想は古代からあったかもしれないが、それが国家の政治体制となるきっかけをつくったのがフランス革命だとすると18世紀。利潤を上げることが自己目的化した資本主義が成立したのが産業革命以後だとするとやはり18世紀。この事情も民主主義と資本主義を一体のものと考える思考を生んだのかもしれない。

しかし、いまの中国は世界で最も資本主義をうまく使いこなしているように見える。そう考えてこのひと月ほど慣れない経済書ばかり読んでいたら、ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った 世界を制するシステムの未来』(西川美樹訳、みすず書房)にほぼ同じことが書いてあるのがわかった。ただ、民主主義国家の資本主義を「リベラル資本主義」と呼び、中国のような資本主義を「政治的資本主義」と呼んでいる。そして「リベラル資本主義」がやがて「政治的資本主義」に移行するかもしれないと示唆している。少し違うと思う。資本主義は自らが最も機能しやすい政治体制を宿主とする生き物のようなもので、そういう宿主がこの百数十年の間は民主主義だっただけの話ではないだろうか。いま民主主義は資本主義から見捨てられつつあるのではないだろうか。そう考えた方が、いろいろなことが見えてくる。

民主主義の理念は個人の独立、自由、平等、人権などだろう。その実現を目指すのが「政治的正しさ」と呼ばれる思考であり運動だ。ところが、どう考えてもこれらは差異(差別かもしれない)から利潤を上げる資本主義と折り合いが悪い。民主主義の理念が実現すれば、資本主義には強力なブレーキがかかるだろう。外国の安い労働力をあてにしなくとも、差異を内包した国々が有利になることは目に見えている。考えてみれば、民主主義国家もかつての植民地の遺産で基礎をつくっただけではなかったか。

差異が生命線と言ってもいいクリエーティブな仕事も「政治的正しさ」の批判を浴びて明らかに萎縮している。価値観を含まない差異は、現実世界ではあり得ないからだ。文学も同じだ。賞の選考会で「政治的正しさ」ばかりが強調されればいずれ文学も死ぬ。民主主義の理念と資本主義の活動原理は、お互いに相容(あいい)れないものが一つになっている絶対矛盾的自己同一のような関係にある。文学と言わず芸術がこの矛盾をどう生きるのか、そこにしか芸術の未来はないといま考えている。

李龍徳(イ・ヨンドク)「石を黙らせて」(群像)の主人公は、結婚を前に相手の女性・真由に自分が高校時代に仲間4人と見知らぬ女性をレイプしたことを告白して、真由を失う。その後、彼は被害者の女性に謝罪するために仲間3人に情報提供を求めるが(村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のようだ)果たせない。それに彼の謝罪はほとんど自己表現に近い。この小説がえぐり出すのは、謝罪は自己満足や自己承認願望にすぎないということだ。

桜庭一樹「少女を埋める」(文学界)は、母親に暴力を振るわれた記憶のある作家・冬子が、父を看取(みと)るために帰郷した慌ただしい出来事が、実に慌ただしい文体で書かれている。彼女の心の傷はまだ癒やされておらず、母が出迎え、待っているだけでビクッとする。実は、母は「家庭という密室で怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた」。その母が父の遺体に向かって詫(わ)びたとき、おそらく彼女は癒やされたのだろう。誤配された謝罪が謝罪となったのだ。この2つの作品のテーマは同じだった。

会員限定記事会員サービス詳細