ビブリオエッセー

江戸落語のリズムにも似て 「無名仮名人名簿(むめいかめいじんめいぼ)」向田邦子(文春文庫)

初めて読んだ向田邦子がこのエッセーだった。有名なホームドラマの数々は、実家にいた若い頃、チャンネル権をもつ父が民放をまったく見なかったため、ほとんど見逃していた。

「お弁当」から「金一封」まで52編。ぜひ味わっていただきたいが、1編のエッセーの中で話はあちこちに飛び、「あれ?」と表題を読み返し、さらに読み進めるとストンとすべてがつながるのだ。これはもう名人芸としか言いようがない。経験豊かな職人のようだ。

今の人にはわからない言葉が出てくる。「ぼろとじくり」?繕いもののことらしい。「冥利が悪くて」?前後の文脈から、もったいない、に近そうだが。「中ッ腹」は「ちゅうっぱら」と読む。これは向っ腹や短気という意味で、お江戸の名物といえば「火事に喧嘩に中っ腹、伊勢屋、稲荷に犬の糞」。中学時代、家にあった江戸落語の本を繰り返し読んだ。向田さんの文章は落語のリズムに似ている。「七色とんがらし」という言葉も語感がいい。

「天の網」というエッセーがある。「天網恢恢疎にして漏らさず」、なにかと「天の網」に引っかかりやすい自分のことを軽妙に書いている。あるとき、新宿で乗ったバスが電車に衝突した。向田さんが23、24歳ごろのことだ。「まだ一一九番もなかったのか、間もなく来たのは米軍の大型トラック」でケガ人を引っぱり上げていたが、幸い向田さんにケガはなく必死に弁明して駆け出した。「新聞にでも名前が出たらどうしよう」と本気で考えたそうだ。後の航空機事故のことを思った。

向田さんが描く日常の機微はクスッと笑えて後味がいい。美学をもった江戸職人だった。

大阪市西区 長野美樹(59)

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