作曲家の團伊玖磨(だん・いくま)は1953(昭和28)年、同門(東京音楽学校=現東京芸大)の作曲家、芥川也寸志(あくたがわ・やすし)(※1)、黛敏郎(まゆずみ・としろう)と「三人の会」を結成する。芥川とは戦時中、陸軍戸山学校軍楽隊でも一緒に過ごした親友であった。
実は、中国などを訪問したのは團よりも芥川が早い。54年、芥川は欧州からソ連(当時)・中国をひそかに訪問。約半年後に帰国し、〝鉄のカーテン〟で覆われていた両国の音楽事情などをメディアで発表、注目を集めた。「左の風」が吹き、資本主義に対する共産主義の優越が盛んに喧伝(けんでん)されたころである。
「北朝鮮にも行ったことがある」という話を、李喆雨(リ・チョルウ)が芥川自身から聞いたのは、随分後のことだ。「自分の作品を持っていった。もちろん秘密に、だったよ」。詳しい事実関係については芥川が亡くなったいま、確認のしようがない。