【東京パラ 超える】生きる喜び 剣に込めて - 産経ニュース

メインコンテンツ

【東京パラ 超える】生きる喜び 剣に込めて

医療とスポーツの2つの道を突き進んできた阿部知里=香川県立三本松高校(本人提供)
医療とスポーツの2つの道を突き進んできた阿部知里=香川県立三本松高校(本人提供)

本業は香川県立中央病院(高松市)に勤務する看護師。患者のがん細胞の遺伝子変異を調べ、個々にあった抗がん剤を選ぶ「がんゲノム医療」のコーディネーターという重責を担う。車いすフェンシングの阿部知里(ちさと)(42)は、多忙な仕事をこなしながら競技力を地道に高めてきた。

看護師との両立

「フェンシングをしながら、看護師として仕事をして普通に生きている」。医療従事者とアスリート。2つの道を邁進(まいしん)してきた自負がある。だが、30歳を過ぎて「障害者」と呼ばれるようになってからは、ある種の違和感がぬぐえなくなった。「弱者扱いされたり、好奇の目で見られたり。かわいそうに思われているんだろうな、という周りの視線が気になるようになった」と打ち明ける。

スポーツには縁がない生活を送っていた。12歳のときにくも膜下出血で倒れ、脊髄の病気と診断された。高校時代に手術を受けた北海道の病院では、前日まで病室や待合室で楽しく話していた患者が翌日に亡くなる経験をした。「人の命ってなんだろう」。看護師を志したのは、闘病生活で身近な人の「死」に直面したことが根底にある。

看護師として働き始めてから、病気が少しずつ進行。30歳の頃から足が頻繁にもつれるようになり、歩行困難に。手術を重ねても症状は改善せず、ふさぎ込む日々。車いすでの生活は窮屈で、閉じ込められているようにも感じた。「心も体も自由になりたい」。各地のスポーツイベントに参加するようになったのは、そんな思いからだ。

車いすフェンシングとの出合いは平成27年秋、京都での体験会だった。「ルールがよく分からないし、剣も速くて見えない。あまり面白くなかった」。翌28年、香川県フェンシング協会の紹介で、強豪として知られる県立三本松高校へ。そこで出会ったのは、当時のフェンシング部監督で、1992年バルセロナ、96年アトランタと五輪2大会に出場した市ケ谷(いちがたに)広輝さん(52)だった。

目標は高い場所

「目標を手の届く場所に置くか高い場所に置くかでは、頑張り方が変わってくる。どうせやるならパラリンピックを目指そう」。そう促され、本格的に競技を始めた。

平日は看護師としてフルタイムで働き、週末は同校を拠点に技術を磨いた。競技の面白さにはまったというよりは「部のアットホームな雰囲気が心地よく、たくさんの人に会えるのが楽しかった」と振り返る。

看護師として働く阿部知里(左)=香川県立中央病院(本人提供)
看護師として働く阿部知里(左)=香川県立中央病院(本人提供)

高校生らは親身になってアドバイスをくれた。不慣れな車いすに乗って実戦練習の相手も買って出てくれた。障害の有無や年齢を問わず、対等に接してくれるのが何よりうれしかった。

めきめきと上達し、2018年ジャカルタ・アジアパラ大会では銅メダルを獲得。翌年には練習拠点を京都と東京に移し、海外の大会を転戦した。仕事と競技の両立は簡単ではなく、過労で入院することもあったが、見事に開催国枠での東京パラリンピック出場を決めた。

決勝トーナメント進出を見据える大舞台。自身が競技する姿を通じ、伝えたい思いがある。

「眼鏡をかけることと車いすに乗ることに変わりはない。いろんな人が生きづらさを感じずに生きられる世の中になってほしい」

多様性と調和-。それこそ、大会が掲げる基本コンセプトに他ならない。(木下未希)

あべ・ちさと

昭和53年生まれ、高松市出身。12歳のときにくも膜下出血で倒れ、脊髄の病気が判明。30歳ごろから歩行困難となり、車いす生活に。37歳で本格的に車いすフェンシングを始めた。「障害B」クラスで、世界ランキングは個人フルーレが23位、同サーブルは19位。東京パラリンピックでは両種目に出場する。

車いすフェンシング

パラリンピックでは1960年の第1回ローマ大会から正式種目として行われている。一般の競技規則に準じ、胴体のみを突く「フルーレ」、上半身を突く「エペ」、上半身を突き、斬る「サーブル」の3種目を実施。フットワークが使えないため、剣さばきの技術とスピードが勝敗のカギを握る。競技は今月25~29日、千葉市の幕張メッセで行われ、日本勢は男女6選手が出場する。

東京パラリンピック企画「超える」

ボトムコンテンツ