築造時期や被葬者など謎に満ちた仁徳天皇陵古墳で、正確な年月日や時間帯までが明らかな出土遺物がある。「昭和20年7月10日未明」。米爆撃機B29が堺大空襲で投下した焼夷(しょうい)弾だ。平成30年の発掘で見つかった。死者1800人以上、同古墳には300発が投下されたという。この夜、戦火の中を逃げ惑いながら「御陵が焼ける」と叫んだ少年がいた。堺市在住の歯科医で考古学研究者、宮川徏(すすむ)さん(88)。古墳に隣接する学校に通い、級友が犠牲になった。「古墳まで戦場になった時代があった」と声を振り絞るように語った。
焼夷弾から油が漏れていた
平成30年11月、墳丘を囲む内側の堤(つつみ)「第1堤」を発掘していた宮内庁と堺市の担当者は、予想外の出土品に目を見張った。六角形をした筒状の鉄製で、2カ所の発掘区域から1本ずつ出土。いずれも太さ7~8センチ、長さ30~40センチで、米軍の「M69 6ポンド焼夷弾」だった。当時の日本に多かった木造家屋が燃えやすいよう、内部にはナパーム油脂約2リットルが充塡(じゅうてん)され、ナパーム弾と呼ばれた。