【話の肖像画】評論家・石平(59)(16)慟哭の「天安門」そして母国との決別(1/2ページ) - 産経ニュース

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評論家・石平(59)(16)慟哭の「天安門」そして母国との決別

天安門事件で大阪の中国領事館前で座り込む=1989年6月
天安門事件で大阪の中国領事館前で座り込む=1989年6月

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《突然、石平さんが声を詰まらせた。目には涙がにじんでいるように見えた…。いまなお中国共産党政権が〝最大のタブー〟として語ることを禁じている「天安門事件(1989年)」に話が及んだときである》


89年4月、改革派の胡耀邦(こ・ようほう)(元総書記)が亡くなり、追悼集会を行う形で再び、民主化運動に火がつきます。北京の天安門広場では、民主化や政治改革を求めて、連日、デモや抗議活動を行う学生らがどんどん集まってきて、やがては100万人規模にまで膨れ上がっていきました。

最高権力者の鄧小平(とう・しょうへい)は戒厳令を敷き、人民解放軍を投入。一歩も引かない学生らとの間で一触即発の雰囲気となりました。

そして、あの6月4日がやってきたのです。

日本へ留学中の僕は、神戸大学の大学院へ入ったばかり。天安門の動きは、テレビや新聞、中国の知人からの手紙などでつかんでいました。3日の夜からは、「いよいよか」という緊迫した状況となり、僕らは、ずっと放送を続けていたテレビの前に陣取って、徹夜で見守っていたのです。


《4日未明、惨劇が始まった。解放軍が放った銃弾に学生らは次々に倒れてゆく。おびただしい血が流れた。正確な犠牲者の人数は今も分かっていない》


怒り、悲しみ、衝撃…。涙が込み上げてきて、呆然(ぼうぜん)自失になりました。一体何が起きたのか? これは夢じゃないのか?

人民解放軍を名乗る軍隊が母国の若者たちに銃を向け、命を奪ったのです。そのときは分からなかったが、犠牲者の中には、僕が中国で民主化運動をやっていたときの知り合いもいた。「アイツも、アイツもやられたんだ」と、1年くらい後になって僕は知らされたのです。


《石平さんら京阪神に住む中国人留学生は朝になってから、大阪市内の中国領事館に抗議のために駆け付ける。デモや集会を行う人数は数千人にも》


誰が呼びかけたわけではありません。みんなが自然に、集まってきたのです。一日中座り込みをし、抗議の声をふり絞りました。僕が先頭で、当時の首相、李鵬(り・ほう)にナチスの軍帽をかぶせた絵をかざしている姿が写真に残っています。公園や道路でデモや集会も開きました。