日曜に書く

論説委員・藤本欣也 受け継がれてゆく声なき声

海外特派員を終え、久しぶりに日本で迎える終戦の日。思い出されるのは鹿児島の知覧だ。取材したのは26年前になる。

旅館に残る大広間

戦後50年の大きな節目となった1995(平成7)年、社会部記者だった私は戦没者遺族の取材に明け暮れていた。

その過程で、毎年春になると元特攻隊員たちがある町の、ある旅館に集まることを知った。それが旧陸軍の特攻基地があった知覧の富屋旅館だった。映画やドラマで全国的にその名前が知られる以前の話である。

知覧からは400人を超す若者が片道の燃料と爆弾を積み、米艦を目指して沖縄の海へ飛んでいった。仲間と語らったり、歌をうたったり、遺書をしたためたりして、出撃前のひと時を過ごした場所が富屋旅館に残っていた。知覧で毎年5月に催される慰霊祭に合わせ、元特攻隊員たちが集う大広間である。

「出撃の朝、おふくろの代わりに見送りに来てください」。そう言い残して出撃する、わが子ほどの年齢の特攻隊員を何人も見送ったのが女将(おかみ)の鳥濱トメさん(1902~92年)だった。当時は食堂を経営していた。

出撃前夜、若者がおはぎを食べたいといえばおはぎを、魚を食べたいといえば魚を何とか工面した。風呂場で明朝出撃する飛行兵の背中をむせび泣きながら流してあげたこともある。

「特攻の母」の遺言

戦後50年の取材で訪れたとき、トメさんはこの世になく、40歳の孫の義清氏が旅館を経営していた。悩みを抱えていた。

「『形として何かを残さないと特攻隊員がきれいな夢物語になってしまう』と祖母はよく話していました。でもこの大広間は、はりが曲がり老朽化が激しい。早く手を打たないと…」

晩年、病床のトメさんは義清氏に遺言を残していた。義清氏はトメさんが語った方言のまま私に話してくれるのだが、語尾が聞き取れない。「ここに書いてもらえませんか」。差し出した取材用のノートに、義清氏は笑いながらペンを走らせた。

東京に戻って間もなくのこと。信じられないような一報が飛び込んできた。義清氏が交通事故で亡くなったというのだ。

すぐに富屋旅館に電話を入れた。受話器の向こうから、妻の初代さんの重く沈んだ声が聞こえてくる。突然思い出した。

「そういえば、義清さんの直筆が残っています!」。事情を説明すると、「見せていただけないでしょうか」と初代さん。ノートから切り取って郵送した紙には、義清氏の字でトメさんの遺言がこう記されていた。

「広間だけでよかで、残せくれんどかい」

時代の空気伝えたい

あれから26年。還暦を迎えた初代さんは富屋旅館の女将になっていた。当時、幼子2人を抱え、母親と女将は両立しないと何度も考えた。背中を押したのが、あの大広間だった。

「子供たちが後を継ぐかどうかは分からない。でも、その選択肢は残してあげないと…」。そう腹を決めて女将になり、夫の死の3年後、大広間の改修工事に踏み切ったのだという。

初代さんには宝物があった。孫の嫁としてトメさんにかわいがられ、いろいろな話をしてもらったのだ。初代さんは旅館を訪れる人々に、トメさんから受け継いだ思いを伝えている。

「特攻隊員を『犠牲』という言葉だけで理解すると過去の話で終わってしまう。彼らは次の世代を心配して、自らの身命を賭(と)した。『今』は先人たちがつくったものであり、『未来』は私たちがつくるものだ。特攻隊員たちがひと時を過ごしたこの場所で何かを感じ、明日を生きる力に変えていってほしい―」

広間は大規模改修が必要な時期に来ている。トメさんは、戦争の体験者がいなくなれば「物言わぬこの建物の空気が物を言うようになる」と話していた。「空気を壊さず改修できないだろうか」。初代さんも亡き夫のように思い悩む日々である。

長男の義太(よしたか)氏は大学卒業後、一旦は東京で就職をした。しかし4年前の31歳のとき、知覧に戻ってきた。今では母や姉と旅館業を切り盛りしている。

トメさんの言葉に「供養と感謝を忘れてはいけない」がある。義太氏はこう考えている。

「単に手を合わせるのではなく、よりよい明日をどうつくっていくのかを考えること。それが私たちの世代に託されたことだと思うのです」

日本のいたるところで声なき声が受け継がれ、今を生きている。そう、信じてやまない。(ふじもと きんや)