私が物心付いたときから、家族は5人なのに食事はいつも6人分、食卓に用意されていた。
それが陰膳と呼ばれることを知ったのは、随分大きくなってからだった。戦争に行ったまま帰ってこない伯父の分だった。
長男の無事帰還を待ち続けた祖父は亡くなり、祖母は毎日地元の氏神様に通っていた。幼い頃、祖母についてお参りするのが楽しいお散歩だった。それは私が生まれる前から何十年も続けられていて、時には家族総出で千度参りをしたこともある。
だが私が中学生の頃、とうとう伯父の戦死を受け入れ、お葬式をすることになった。
遺骨はなかったが、伯父が出征前に残していった頭髪が見つかり、それを納めた。
頭髪は、「アケルナ」と書かれた木箱の中から、軍の書類とともに見つかった。ほんの一つまみを丁寧に紙に包んで「頭髪」と表書きがしてあった。
伯父の覚悟を知り、家族で泣いた。
享年23歳。軍服を着た伯父の遺影はあまりに若かった。英霊墓地に石碑が建ち、陰膳は姿を消した。
あれから40年。祖母も亡くなり、父もまた両親の元へ旅立った。毎年終戦記念日が近付くとよみがえる、伯父を待ち続けた家族の記憶。
私も祖母にならって、毎日地元の氏神様にお参りし、家内安全をお祈りしている。コロナ禍の今、離れて暮らす娘たちの無事を祈るとき、祖母の想いが胸に迫る。
いつの世も、わが子を想う母の祈りは変わらない。
山西啓子 55 和歌山県印南町