祖国憂い、貫く「戦友愛」 シベリア抑留の元関東軍兵士

遺骨収集について語る荒木正則さん=9日、大阪府河内長野市
遺骨収集について語る荒木正則さん=9日、大阪府河内長野市

第二次世界大戦終戦間際の旧ソ連軍の侵攻、敗戦に伴う武装解除、シベリア抑留、そして帰国-。日本陸軍関東軍軍曹として、満州(中国東北部)で旧ソ連軍と激しく戦った荒木正則さん(97)=大阪府河内長野市=は、戦火に散った同期らの思いを次世代へとつなぐ活動を高齢となった今も続けている。その背を支えてきたのは戦闘や抑留生活で失った多くの仲間への「戦友愛」だ。

熊本県出身の荒木さんは当時21歳。満州では、石頭(せきとう)予備士官学校の13期生として任務にあたっていた。旧ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦したのは、終戦間際の1945(昭和20)年8月9日。満州の守備を担当していた関東軍が応じたが、同軍も戦況の悪化とともに南方戦線へ兵力を提供しており、当時の戦備は脆弱(ぜいじゃく)だったという。

機関銃中隊に所属していた荒木さんは低空で攻撃してくる敵機に必死で応戦。「敵の顔が分かる距離からの機銃掃射に一瞬ひるんだが、地上からとにかく弾を撃ち続けた。命中したかどうかも分からないが、戦闘中は『やられてたまるか』の一念だった」と振り返る。

陸軍入隊後の荒木正則さん(昭和19年ごろ)
陸軍入隊後の荒木正則さん(昭和19年ごろ)

ソ満国境方面の磨刀石(まとうせき)と呼ばれる戦場では、同期の候補生約900人が爆弾を抱えて敵戦車に突撃、大半が命を落とした。満州の開拓に従事した在留邦人らが逃げ延びる時間を稼ぐための特攻だったとされるが、関東軍幕僚がすでに司令部を朝鮮方面へ後退させることを決めていたため、軍が「国民を見捨てた」との見方は支配的だ。荒木さんは「ソ連の参戦を見越し、在留邦人を早期退避させるべきだった」という複雑な思いを持っているという。

旧日本軍の抵抗は長く持たなかった。荒木さんらは8月19日、満州・敦化(とんか)で武装解除。牡丹江(ぼたんこう)までの約250キロを徒歩で移動した。「ソ連兵から朝昼晩『トーキョーダモイ(東京に帰るぞ)』といわれ、その気になっていた」というが、冬の足音が聞こえるころ、行き着いたのはシベリアの捕虜収容所だった。鉄道の敷設工事に投入され、おのを手に原生林を切り開き、シャベルで土を掘り起こす。黒パン一切れと味のしないスープで飢えをしのぐ厳しい生活が待ち受けていた。

「動物のような扱われ方で、感情を捨てることに徹した」と話す荒木さん。重労働に耐えきれず逃走を図る仲間もいたが、成功したためしはなく、飲み水を求めて雪を取りに行っただけで銃殺された日本兵もいた。抑留中、幾度となく命を落としかけた荒木さんがようやく京都・舞鶴に引き揚げてきたのは終戦から3年後の昭和23年10月のことだった。

シベリアで死に、遺骨すら収集されていない戦友への思いに突き動かされ、退職後に自ら体験を話すようになったという。平成15年からはほぼ毎年、政府の遺骨収集団に参加しつつ、今でも求められれば体力の許す限り、過酷な体験を講演などで語り継いでいる。

「お国のために、と命をなげうった20歳前後の若者が、戦後76年がたとうとする中、いまだ帰還できていない。非人道的な史実を知ってもらいたい」と思いを口にする。

戦後日本を覆った軍国主義に対する一面的な批判には、「先人の苦難の上に、現在の平和が築かれたとの思いは揺るがない」と話す。極寒の地で亡くなった戦友の遺骨ですら、まともに故国に帰らせてやれない現実に憤慨する。

97歳という高齢に加え、近年背中を患うなど、体力の衰えを感じている。それでもできる限り後世に伝えることは続けたいと話す荒木さん。「生き残った一人としてそれが使命ですから」と改めて思いを強くしている。(矢田幸己、写真も)

【シベリア抑留】 1945(昭和20)年8月、日ソ中立条約を破って対日参戦したソ連軍が、日本軍将兵らをシベリアなどソ連各地の収容所へ連行。強制労働を強いられた人々の抑留は最長で11年間に及んだ。厚生労働省は日本人抑留者約56万1千人のうち、約5万3千人が寒さや飢えなどで死亡したと推計。平成28年成立の戦没者遺骨収集推進法で、戦没者らの遺骨収集事業は「国の責務」と位置付けられたが、令和元年には、過去に収集した遺骨の取り違えが発覚した。

会員限定記事会員サービス詳細