話の肖像画

評論家・石平(59)(13)「資本主義は悪」ではなかった

母校の北京大学を再訪=1991年
母校の北京大学を再訪=1991年

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《大学で民主化運動にのめり込んでいた1980年代初め。社会も穏やかな雰囲気に包まれてゆく》


僕がいた北京大学の哲学部は1学年2クラス。残念ながら女子学生は少ない(苦笑)。当時、大学では男女交際はご法度でした。見つかると警告を受けて、就職(配置)のときに不利益をこうむることもありました。そうした中でも、僕らは懸命にアイデアを絞った。女子学生が多い師範大学と民主化運動で連携を強めたり…。

生活に関するものはすべて大学内にそろっていました。宿舎から食堂、商店、本屋、浴室もある。哲学部の講義はもちろん、マルクス・レーニン主義が中心なのですが、それを理解するために、カントやヘーゲル、孔子など、中国哲学も勉強しました。文化大革命(文革)が終わり、「論語」も解禁されましたのでね。


《80年代のもう一つの潮流は「親日ムード」だった。改革開放政策に舵(かじ)を切った鄧小平(とう・しょうへい)政権は、日本の「カネと技術」を欲しがったからである》


隣の先進国・日本に学べ、日本に追いつけのスローガンが一斉に唱えられるようになりました。中国の経済発展のためには、日本からのODA(政府開発援助)や先端技術がどうしても必要だった。

結局、日本はその手に乗せられ、すっかりだまされてしまったわけなのですが…。

外国文化も文革中は禁止されていましたが、解禁されます。1番人気だったのは日本の大衆文化。映画、テレビドラマ、歌謡曲、アニメ…が、ある日突然のごとく、僕らの前になだれ込んできたのです。

中国女性にとって男優の1番人気は高倉健でした。特に北海道を舞台にして、倍賞千恵子と共演した映画「遙(はる)かなる山の呼び声」(山田洋次監督、日本公開は80年)は大反響を呼びます。若い女の子はみんな健さんのような長身で無口な男にあこがれました。一世を風靡(ふうび)したと言っていい。そのせいで、小柄な僕はすっかりワリを食うことになったのです。

山口百恵が主演した「赤いシリーズ」のテレビドラマやNHKの連続テレビ小説「おしん」も大人気でした。大学内には集会室にテレビが1台あって、学生はそうしたドラマに夢中になっていましたね。日本映画は街の映画館や大学のホールでも上映されました。84年に、中曽根康弘首相(当時)が訪中した際には、北京大学で演説を行いました。それに合わせて日本週間のイベントが開催されたこともありました。

アメリカ文化よりも日本の大衆文化に人気があったのは、やはり同じアジア人として親近感があり、人情の機微に共感するものがあったのだと思います。

もうひとつ、僕らは大事なことに気付きます。それは、これまでさんざん「資本主義は悪だ」「資本家は労働者を搾取する存在だ」と教えられてきたのに、実は違うじゃないか、ということが、だんだん分かってきたのです。

日本の大衆文化が描かれる世界に「階級闘争」なんてありません。まさに、世界観の大チェンジ。日本国内で大騒ぎになった歴史教科書問題(82年)も、当時の中国ではほとんど話題にならなかったのですから。(聞き手 喜多由浩)

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