戦後76年

全国樺太連盟、活動に終止符 歴史の継承願う

樺太で初の市制施行を記念し、豊原駅、商店、銀行、劇場などが並ぶ大通りを行進する祝賀行列=昭和12年7月1日(全国樺太連盟提供)
樺太で初の市制施行を記念し、豊原駅、商店、銀行、劇場などが並ぶ大通りを行進する祝賀行列=昭和12年7月1日(全国樺太連盟提供)

旧ソ連が侵攻する昭和20年8月まで日本が統治していた南樺太の引き揚げ者らでつくる「全国樺太連盟」(樺連)が3月、解散した。先の大戦に敗れた日本は南樺太を放棄。複雑な状況に置かれた故郷を思い、戦没者慰霊などに取り組んできたが、会員の高齢化や減少が著しく活動に終止符を打った。15日で終戦から76年。記憶の風化は進み、元会員らは「歴史の真実を次世代に引き継いでほしい」と切望している。

26年のサンフランシスコ講和条約で日本は南樺太と千島列島を放棄したが、ソ連が調印しなかったため、国際法上の帰属は未定だ。国内に返還運動の動きもあったが、難しい活動を余儀なくされ、引き揚げ者2、3世の加入も進まなかった。国が啓発する北方領土などに比べ、南樺太が日本領だった事実は風化し、関心は薄れていった。

侵攻で故郷を追われた引き揚げ者らによって23年に設立された樺連は、元住民の支援をはじめ、南樺太が日本領だった歴史的事実や生活、文化、産業などの実情を継承してきた。平成初期の6300人をピークに会員は939人まで減少。平均年齢は84・1歳に達し、体力や気力の限界を迎えていた。

猛暑が続く8月上旬、樺連が本部を置いた東京都港区の事務所では、元会員らが書類整理や電話対応に追われていた。解散後の清算手続きを補佐する元常務理事の辻力(つとむ)さん(75)は「作業が膨大で追いつかない」と話す。約3千点にも上る資料や物品の受け入れ先の調整も難航している。

戦災に備えた鉄兜(かぶと)や、元住民の手記をはじめとする貴重な資料もある。中でも記憶を基に手書きされた多数の住宅地図が目を引く。世帯名が記された建物、道路の位置などが細かく記され、豆腐屋、ブリキ店、パチンコ店などの表記が生活の息吹を伝える。

辻さんも平成13年から数回現地を訪れ、住宅地図で実家の場所にたどり着いた。昭和21年7月にソ連占領下で生まれた翌年、北海道へ引き揚げ、当時の記憶はないが「街並みに地図の面影があった。夏場で緑が深く、故郷に戻ったと実感した」と振り返る。祖母らの遺骨を安置していた寺はソ連の攻撃で焼失。草が茂る跡地で、線香をあげた。

樺連は、中学校の歴史教科書や大学入試センター試験で樺太をめぐる経緯の正確な記述を求め、国に意見提言もしてきた。辻さんは「『樺太』の読みを知らない若い世代も多く、風化の危機。子供たちが日本や樺太の歴史や背景を正しく知り、学ぶ機会は重要だ」と話す。

ロシアがサハリンと呼ぶ樺太には現在、多くのロシア人が生活する。「故郷を失う悲しみは実体験として痛いほど分かる。帰属問題の解決は簡単ではない」。前置きした上で辻さんはこう力を込めた。「ロシアと平和条約交渉をするなら、歴史の事実はもちろん、領土権などでも毅然(きぜん)とした主張をすべきだ。それが、あまたの日本人を開拓で樺太に送り込んだ国の責務でもある」(中村昌史)