勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(289)

恩師の言葉 わだかまり超え 日本ハムコーチに

日本ハム時代の加藤英司・打撃コーチ
日本ハム時代の加藤英司・打撃コーチ

■勇者の物語(288)

広島へトレードされたヒデさんはどんな気持ちだったのだろう。後年、加藤は納得した表情でこう言った。

「仕方ないやろ。監督とは口もきかんかったし成績も悪い。ウエさんも使いにくかったと思うよ。オレが監督でもそんな選手はトレードに出すわ」

広島での加藤は不運続きだった。昭和58年シーズン、中盤に「肝炎」で休養。それが治ったら次は「ぼうこう炎」。結局、出場75試合、打率・261、10本塁打、36打点に終わり同年オフ、近鉄へトレードとなった。その後の加藤は近鉄―巨人―南海と流転。球界の『渡り鳥』といわれた。実はこの呼び名は、単に球団を渡り歩いたからではなく、阪急―広島―近鉄―巨人―南海と、渡り鳥のように必ず古巣の関西球団に戻ってきたから。「へぇ、そうなんや」。ヒデさん自身も知らなかったようだ。

62年、現役引退。野球評論家となった加藤に平成7年、打撃コーチの声が掛かった。なんと日本ハムの上田監督からのオファーだった。加藤は困惑した。

「信じられんかったよ。最初は悪い冗談やとも思った。なんでオレなん? あんなこと(広島への放出)があったのに、オレを打撃コーチに誘うか? ウエさんの気持ちが理解できんかった。オレを嫌ってると思っていたしね。どうしたらええか分からんかった」

加藤は恩師の西本幸雄に相談した。いきなり「アホか!」と怒鳴られた。

「アホかお前は! そんなもん考える必要もない。ウエはお前を必要としとるんや。過去のことはどうでもええことや。行って、ウエを助けたってこい」

加藤は日本ハムの一軍打撃コーチに就任した。

――上田監督になんで自分をコーチに呼んだか尋ねてみたんですか

「そんなもん、聞けるかいな。けど、オレが感じていたような〝わだかまり〟はなかった。勝つために必要か、そうでないか―それがウエさんの判断基準やったと思う。オレが広島に出されたのも、コーチに呼ばれたのも…。そこに〝情〟は挟まない」

情の深い西本に育てられ、勝つためには情を捨てることもいとわない上田との出会い。「オレの財産やね」とヒデさんは笑った。(敬称略)

■勇者の物語(290)