話の肖像画

評論家・石平(10)公開処刑は古代ローマの「サーカス」

成都に戻った中学生時代
成都に戻った中学生時代

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《社会全体が貧困にあえぎ、日々の楽しみもない。そんな暮らしの中で、人民たちは、ひたすら毛沢東主席を称(たた)え続けた》

文化大革命(文革)当時の毛沢東が全知全能の〝神様以上〟の存在だったことはすでに述べました。人民は、そのことに対して疑問をまったく持っていなかったし、批判や悪口なんて想像もつかない、ありえないことでした。

農村の人民公社では毎朝、有線放送のスピーカーからまず、毛沢東を称える歌が流される。それからニュースやお知らせ。もちろん内容は、毛沢東の指導を褒め称えたり、感謝したりすることばかり。

テレビはなく、ラジオさえ、人民公社の大隊の隊長が持っているくらい。人民日報(共産党機関紙)も大隊の本部に来るだけ。とにかく、「共産党の宣伝」以外の情報がまったく入らなかったのです。

《成都などの都市部では「反革命分子」などと決めつけられた人たちの公開処刑が日常的に行われていた》

「反革命分子」「階級の敵」などといっても、ほとんどが言いがかりや、取るに足らないことがきっかけです。それに対して、当局が公判大会を開き、無理やり「罪」をデッチ上げるのです。

僕が覚えているのは、公開処刑になったあるおばあさんのこと。成都の中学に通っていたときです。近所でゴミ拾いなどで、かろうじて生活していたおばあさんが処刑された理由は、何と、ダイコンを毛沢東の写真が載っている新聞紙で包んだことでした。

公判大会は、国慶節(建国記念日)、共産党創建の日などの前に行われます。成都ではそんな日に数十人もの人が処刑されました。自分の名前の上に死刑囚を意味する赤で大きなバッテン印をつけられた看板を、首からぶら下げた罪人はトラックの荷台に乗せられ、人民たちが見守る中をゆっくりと進んでゆくのです。

見守る群衆には、恐怖心とともに、異常な興奮が巻き起こっていたように思います。古代ローマ時代の為政者は、民衆をコントロールするすべとして「パンとサーカス(娯楽)」を与えた、と言いますが、中国共産党の公開処刑も、それと同じ効果を狙っていたのではないでしょうか。

つまり、共産党に盾突いたらこうなるぞ、という恐怖心を植え付けるとともに、閉塞(へいそく)した日々の暮らしのストレスを発散させる手段、〝ガス抜き〟として公開処刑の殺人ショーを行っていた。

国慶節の前には特別な豚肉の配給などもあったので、まさに「パンとサーカス」でした。

《文革中の「悪玉」にされたのは、毛沢東が追い落としをかけた劉少奇(りゅう・しょうき)(元国家主席)の一派、あるいは国民党の蔣介石(しょう・かいせき)(総統)。彼らへの悪罵の投げつけは子供の世界でも》

先生の指導のもと、劉少奇を批判するクラス会をやったり、作文を書かされたりしました。子供だからよく分かっていないのだけれど、先生の言うがままに「裏切り者」などと悪口を言ったり、書いたり。

文革で批判された人に向けて手製のパチンコで「階級の敵を撃て」などと、実際に石をぶつけたこともある。今から思えば随分、ひどいことをしたものです。(聞き手 喜多由浩)

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