直木賞に決まって

燃え尽き、灰になれ 佐藤究さん

「テスカトリポカ」で第165回直木賞に選ばれた佐藤究さん=東京都千代田区(日本文学振興会提供)
「テスカトリポカ」で第165回直木賞に選ばれた佐藤究さん=東京都千代田区(日本文学振興会提供)

新聞各紙へのエッセイ寄稿、テレビ、ラジオ、雑誌のインタビュー、写真撮影、そしてインターネット動画チャンネルのスタジオ出演。

スケジュールはぎっしりだ。仕事を一つ片付けると、新たな依頼が二つ入ってくる。どれがどれやら。直木賞の受賞が決まった翌日から、私はまるでロックスターのような日々の中に放(ほう)り込まれた。とはいえ、私と編集者にローリングストーンズが乗るようなリムジンが用意されるはずもなく、感染対策のマスクを着けて、おとなしくタクシーを乗り継いでいるだけなのだが。

ひたすら〈受賞者任務〉をこなす日々。コロナ禍なので祝賀会や打ち上げはないけれど、それでも大変な慌ただしさである。しばらくは本業の小説に戻れないだろう。というよりもむしろ、この騒ぎが収まるまで何も書くべきではない。なぜなら、力強い本物の言葉が生まれてくるためには、〈静けさ〉が必要だからである。私にそれを教えてくれたのはアメリカの作家、チャールズ・ブコウスキーだった。こう言うと、首を傾(かし)げる人がいるかもしれない。ブコウスキー? あの人のどこに〈静けさ〉があるのか。

確かにブコウスキーは飲んだくれだった。別名〈酔いどれ詩人〉。自作の詩を朗読する壇上でも酒を飲み(グラスではなく瓶で)、客の飛ばす野次(やじ)を堂々と受けて立った。バーで話しかけてきた無礼な若者(女性たちを引き連れた彼の口から文学の話は出なかった)の襟首をつかんで威嚇したこともある。この時すでに齢70を越えていた。退散する若者を見送り、喧嘩(けんか)にならなかったことを惜しみつつ、平然と飲み続けた。

さらにブコウスキーは大の競馬好きであり、レースがあれば必ず愛車を運転して競馬場に出かけ、場内をうろつき、警備員に怪しまれ、馬券を買い、勝ったり負けたりしながら、自分と同じように結果に一喜一憂する人々を眺め続けた。

飲んだくれ。筋金入りの競馬好き。私たちが思い浮かべるのは、ある典型的な人物像だ。ところがブコウスキーは、こちらの思いを見透かしたようにこう書いている。

「わたしの読者の中には、わたしが大の競馬好きで、賭け事にやたらと興奮させられ、とにかく熱心なギャンブラーにして、男の匂いをぷんぷんさせているやり手ではないかと考える人もいることだろう」(『死をポケットに入れて』中川五郎訳)

その通りだ。私もずっとそう思っていた。騒乱と熱狂の日々こそが重要なのだ、と。

だがブコウスキーはこんなふうに打ち明ける。

「わたしはほとんどいやいやながらという感じで競馬場に出かけていく」

あえて酒を飲み、あえて競馬場に通うことでブコウスキーは燃え尽き、灰になった。その灰の余熱、その〈静けさ〉こそが、夜中に机に向かう作家に本物の言葉をもたらしてくれたのだ。

灰になるがいい、移動中の車内で私はブコウスキーの声を聞く。燃え尽きたところから、また始めるのさ。(寄稿)

さとう・きわむ 昭和52年、福岡市生まれ。福岡大付属大濠高校卒。平成16年に純文学作品でデビューし、28年に『QJKJQ』で江戸川乱歩賞。30年に『Ank:a mirroring ape』で大藪春彦賞と吉川英治文学新人賞。今年の山本周五郎賞受賞作『テスカトリポカ』で7月、第165回直木賞。

会員限定記事会員サービス詳細