「慶応3(1867)年の政権返上(大政奉還)に引き続いての謹慎恭順ということがなくして、前将軍をしてやせ我慢をもって幕府と薩長とが相争うということになったならば、この日本はどれほどの困難に陥るか、どれほどの悪結果を見るか、(中略)英国が薩長に助力するとか、フランスが幕府に加勢するということがあったならば、(中略)日本はどういうふうに切断せられまいものともしれないのであった」
徳川幕府の祖、家康没後300年を記念する大祭が開催された大正4(1915)年、満75歳になる渋沢栄一が静岡市で行った講演「東照公(家康)と前将軍(慶喜)」の一節だ(『渋沢栄一全集』第6巻収載=旧漢字・仮名遣いや句読点などを編集。以下の引用も同様)
「ここに(慶喜が)早く思いをつけられたのは私どもの凡眼の届かないところであって、当時の場合はかれこれと理非を論ずるとついには大勢の議論となって分からなくなってしまう。ゆえに自分はばかといわれようと怯懦(きょうだ)といわれようと、ただ一意天子の命に服従する(後略)。それにはいわゆる身を殺して仁をなすの覚悟を持続するにあるというのが前将軍のご趣旨であった。しかしそれはどうもその当時には十分分からなかった。殊に前将軍は(中略)決してそういうことをご自分で言われないから、なおさら世間には分からない」