話の肖像画

評論家・石平(59)(8)祖父が命がけで教えた「論語」

田舎で遊び回った少年時代
田舎で遊び回った少年時代

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《文化大革命(文革)で「下放(かほう)」された両親と離れ離れの生活は8年間も続いた》


四川(しせん)省の田舎にある祖父母の家に預けられていた僕は幼かったこともあって、何の事情も知りません。お正月などにたまに会いに来る両親も祖父母も「(両親は)仕事のために遠くへ行っている」と説明するだけ。なぜならば、誰がどこで聞き耳を立てているか、分からないからです。

当時、文革に対して、批判めいたことを口にして、それが漏れてしまうようなことにでもなれば、「反革命分子」と決めつけられて、たちどころに社会から葬り去られてしまいます。

小学校は人民公社の中にありました。編成する大隊ごとに小学校があり、僕の学校は一学年2クラスくらい。祖父の家から歩いて20~30分の距離でした。

各教室には毛沢東の肖像画が飾ってありました。毎朝、僕らは起立し、「偉大な領袖(りょうしゅう)毛主席」の肖像に向かって3度の礼をする。そして先生が主導して「毛(沢東)語録」(毛沢東の著作などが書かれた赤い表紙の小冊子)の一節を唱えるのです。そこからやっと授業が始まる。教科書の中身も、国語などは半分ぐらいが毛沢東の文や詩で占められていましたね。

当時の中国で毛沢東は〝神様以上〟の存在。全知全能で、人民のことを考え、人民のために尽力してくださる…。僕らが約束事をするときも、「毛主席に保証する」と言い合う。つまり、絶対に約束を破ることはできない(苦笑)。

そうやって先生に〝良い子〟だと認められると、共産党の少年組織である「少年先鋒(せんぽう)隊」(文革期の呼び名は「紅小兵(こうしょうへい)」)に入ることができる。隊員が巻く赤いネッカチーフは皆のあこがれ。僕は小学校高学年になって、やっと入ることができた。


《小学校4年生、10歳になったころ、漢方医である祖父の『論語』授業が始まった。「絶対に外でしゃべってはいけない」と何度もクギを刺されたのは、文革中、それが禁止されていた行為だったからだ》