モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら

(107)地獄をもたらす「赤いウイルス」

赤い独裁国家を告発した『重要証人 ウイグルの強制収容所を逃れて』(草思社)は必読だ
赤い独裁国家を告発した『重要証人 ウイグルの強制収容所を逃れて』(草思社)は必読だ

新型コロナウイルスの感染が猛烈な勢いで拡大するなかでの五輪開催。これを「シュールな光景」と言わずしてなんと言おう。われわれは本当に前代未聞、未曽有、稀有(けう)な時間を過ごしている。これが狂気の沙汰なのか、勇気ある壮大な社会実験なのか、もう少し時間がたたなければ判断はできないだろう。私自身はといえば、無料のテレビ桟敷で日本人選手を応援し熱狂する多くの日本人のひとりである。

いわば「同じ阿呆なら踊らにゃ損々」の心境なのだが、皮肉を好んだモンテーニュが愛し、『エセー』にたびたび引用した古代ローマの詩人、ユウェナリス(60年頃~128年頃)の書いた一節が、五輪に浮かれた頭に浮かんできた。『諷刺(ふうし)詩』第10歌にこうある。

《我々ローマ市民は、選挙権を誰にも売らなくなって以来、長いあいだ政治的な責任を放棄している。つまり、かつては命令権も、儀鉞(ぎえつ)も、軍団兵も、何もかも自分の意志で与えていたのに、今では我とわが欲望を制限し、ただ二つのことしか気にかけず、ただそれだけを願っているのだ。穀物の無償配布と大競争場の催し物を》(国原吉之助訳)

政治を論じる人々が愚民政策のたとえとしてよく口にする「パンとサーカス」はここに起源をもつ。

ローマ帝国初代皇帝のアウグストゥスが紀元14年に亡くなり、その権力を継承した2代皇帝ティベリウスは、公職選挙を事実上元老院に委ねてしまう。それまで選挙権を持っていたローマ市民は、票を売買することで政治への関心を維持してきたが、これを失ってからの関心ごとはもっぱら国が提供する「パンとサーカス」になったというのである。

権力者の究極の目的は権力の維持である。国庫が豊かであれば、「パンとサーカス」をどしどし供給して市民(国民)を喜ばせてやればよい。そうすれば権力者は思うがままの政治ができるはずだ。ただ、奴隷制に支えられていた古代ローマはいざ知らず、現代の世界においてこの政策を遂行できるのは、あの赤い独裁国家以外にないだろう。

少し脇道にそれる。ユウェナリスは『諷刺詩』第10歌に、神に何かをお願いするときには欲を張りすぎることなく《健全な身体に健全な精神を与え給(たま)えと祈るがいい》と記している。彼のいう「健全な精神」とは、死を自然の恩恵とみなせる強靱(きょうじん)な精神、無欲恬淡(てんたん)な精神のことだ。過剰な金銭欲や名誉欲にとらわれた強欲な人間にクギを刺す言葉が、いつのまにか「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」となって世界に流布してしまったのである。

再教育とは殲滅の謂い

踊るばかりでは物足りなくなって、赤い独裁国家を告発した本を一心不乱に読んだ。『重要証人 ウイグルの強制収容所を逃れて』(草思社)である。

著者のサイラグル・サウトバイさんは1976年に中国の新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)に生まれたカザフ人女性だ。向学心に富む彼女は、黄金の未来を夢見て大学で医学を学び医師として働くものの、家庭の事情でこれを辞す。結婚し2人の子供を授かった彼女は幼稚園の園長として働いていたが、自治区の状況はウイグル人、カザフ人、キルギス人といった漢族以外の民族にとっては地獄のようになってゆく。最新技術を駆使した監視態勢の構築、母国語の禁止、信仰と伝統文化の破壊、そして臓器狩り…。

2016年11月、彼女らムスリムの職員たちは非公式の会合に呼び出される。そこで教育局長の漢族女性は「われわれは将来的に、イデオロギー上のウイルスに汚染された悪性思想を根絶する。そのウイルスは先住民の心から発生したものである」と言い放ち、「治安の安定という最終目標を実現するため、党は〝再教育収容所〟を設立する」と宣言する。

ある日のこと、彼女は再教育収容所、すなわち少数民族殲滅(せんめつ)のための強制収容所に連行され、そこで収監者に中国語、中国文化、習近平思想などを教える教師を命じられる。身柄は拘束されたままだ。5カ月後、彼女はその職を解かれるものの、今度は自身が収容所収監者のリストに入っていることを知る。収容所では漢化を強制する洗脳教育だけではなく、拷問とレイプが日常化していた。収監されれば、その先にあるのは死のみ。彼女は決死の覚悟で、夫と子供2人が待つ隣国のカザフスタンに脱出する。18年4月のことだ。

ただ、中国に経済的支援を仰ぐカザフスタンも彼女にとっては安息の地ではなかった。むしろそのほうがよかったのかもしれない。不法入国の罪に問われて拘束された彼女は、18年7月に3回開かれた法廷に立たされる。そこで自治区で進行中の恐るべき実態を詳細に証言できたからだ。そのニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、今年6月、英国コーンウォールで開かれた先進7カ国首脳会議の共同声明にも大きな影響を与えることとなる。裁判後の19年6月、彼女は国連のはからいで家族とともにスウェーデンに政治亡命し、中国政府によるジェノサイドについて積極的に発言を続けている。その自宅にはいまなお、脅迫の電話が頻繁にかかってくるという。「子供の身のためを考えろ」

道義を重んじる日本人として

本書の最後で彼女はこう訴えている。少し長いがそのまま引用したい。

《自由世界に対する中国発の〝心のウイルス〟の攻撃はやまない。私が願うのは、中国共産党と北京政府が脅かしているのは自国民だけでなく、地球上のすべての国の人々なのだという事実を世界の人たちに気づいてもらうことなのだ。このウイルスはCOVID-19よりもはるかに危険なウイルスだ。/地獄--それがこのウイルスが運んでくる現実にほかならない》 読者のみなさんに心からお願いしたい。この夏、ぜひ本書を読んでいただきたい。10万人が読み、SNSなどでそれぞれが声を上げてくれたら、深刻を通り越した人権問題に目をつぶって中国と付き合おうとする日本の政治家と大企業の経営者の態度にきっと変化が生じると思うからだ。われわれはユウェナリスの時代のローマ市民ではない。有権者であり賢い消費者なのだ。いや、それ以前に、われわれは道義を重んじる日本人なのだから。(文化部 桑原聡)