話の肖像画

評論家・石平(59)(7)共産党に「収奪」される農民

幼少期は母方の祖父母に育てられた
幼少期は母方の祖父母に育てられた

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《石平さんが4歳だった1966年、文化大革命(文革)が始まり、大学の教員だった両親は農場へ「下放(かほう)」。不在の両親に代わって育ててくれたのは母方の祖父母だった》


祖父は、漢方医の家系に育ちました。最初は小さな街で商売をしたのですが、共産党政権になってから、四川省の楽山(らくさん)地区の山中の農村に移りました。そこで、昔、覚えた医術(漢方)を生かし、〝村の医者〟になったのです。だから、正式な医師ではありません。

祖父は、粗末な自宅を〝診療室〟にして、患者の脈をとったり、舌の状態をみたりして診察をしていました。診療器具もない。薬は、ときどき山へ出かけて、薬草などを採っていましたね。ただ当時の中国の農村は、医者などおらず、病気になれば、そのまま死んでいくしかなかった時代です。祖父は村人に「名医」として尊敬されていました。


《貧乏な村人には、診療費として支払うカネがない。代わりにもらったのが米や野菜、鶏(にわとり)などだ》


そのころの中国は、とても貧しかった。毛沢東(中国共産党中央委員会主席)が50年代の後半から主導した、農業と工業の「大躍進」政策が大失敗に終わり、結果として、数千万人もの大量の餓死者を出してしまったのです。

食料事情は都会の方が厳しく、父の親族にも餓死した人が何人もいます。母も私を産むときに、妊産婦としての栄養がまったく足りませんでした。だから、田舎にいた祖母が、竹の中に卵を隠して母のところへひそかに運んだくらいです。

この飢饉(ききん)は「天災」ではなく「人災」ですよ。58年からできた「人民公社」(農村の行政単位であり、集団で農業、工業、教育、軍事などの活動を行う基本組織)に組み入れられた農民は、現実を無視した過剰なノルマを掲げる共産党に収穫を吸い上げられ、わずかなものを与えられるだけ。自分たちが作ったのに、ですよ。もう、完全に「収奪」の世界でした。