本郷和人の日本史ナナメ読み

鎌倉の文書行政㊤ 頼朝「異例」下文の数奇な運命

松平秀康像(模本、東大史料編纂所蔵)
松平秀康像(模本、東大史料編纂所蔵)

源頼朝はこれまで見てきたように、治承4(1180)年の旗揚げ直後から、従属してくる武士に「お前の土地所有を承認する」という本領安堵(あんど)の文書を発給しました。この文書の形式は「下文(くだしぶみ)」と呼ばれるもので、多くの場合は文書の右側(文書の「袖」部分とよぶ)に頼朝の花押(かおう)(サイン)が記されていました。それは「私、頼朝が認めるぞ」という意味でした。

ところが建久3(1192)年に征夷大将軍になると、頼朝は下文の形式を変えます。今までの下文は回収して、あらたに幕府の役所である「将軍家政所(まんどころ)」が作成する下文を御家人たちに与えたのです。これは「将軍家政所下す」と書き出すもので、呼びかけの主体は頼朝個人ではなく、幕府組織である政所になります。そのため、頼朝の花押は書かれず、政所職員の自署と花押が記されました。

この改変に公然と不平をならした御家人がいた、と『吾妻鏡』は記します。房総半島随一の有力者である千葉常胤(つねたね)です。常胤の言い分はこうです。「頼朝さまの花押があってこそ、文書は土地領有の証拠としての効力をもつ。いま新たに頂戴した下文を見ると、ここに名を連ねているのは、政所の役人どもばかりである。こんなものは子々孫々までの貴重な証文にはなり得ない。他の御家人はいざ知らず、幕府創業からの功績をお考えいただいて、私には以前の形式の下文を賜りたい」。そう頼まれた頼朝は、常胤が言うならば仕方あるまい、と自身の花押を記した下文を作成して与えたそうです。

『吾妻鏡』は信頼性は高いとはいえ、後に編纂(へんさん)された歴史書ですから、このエピソードが間違いのない史実かというと、そこまでは断言できません。隆盛を誇った千葉の家は、戦国時代に没落してしまい、残念ながら古くからの文書は失われています。そのため現物は残っておらず、確認することができないのです。

ところが、東大史料編纂所が架蔵している影写本、『松平基則氏所蔵文書』の中に、刮目(かつもく)すべき実例が存在しました。それは幕府が小山朝政に宛てた2通の下文です。1通は、ある1つの土地について、将軍家政所が朝政の権利を認めている。もう1通の下文では、そうした個々の所領をひっくるめて、すべての所領について頼朝が、朝政の権利を認めている。もちろん、文書の袖には、頼朝の大きな花押が据えてあります。

こうしたセットがあるからには、『吾妻鏡』のエピソードは史実と受け止めてよいのではないでしょうか。千葉常胤が頼朝の下文をもらっているので、小山朝政は「じゃあ、私にも」とお願いし、許されたのでしょう。

さて、この『松平基則氏所蔵文書』ですが、松平基則氏とはどんな人物でしょうか。調べてみると、明治8(1875)年に生まれ、昭和5(1930)年に没した伯爵で、直基(なおもと)系越前松平家第13代当主だそうです。徳川家康の次男は松平(結城)秀康ですが、この家は秀康の五男、直基に始まり、前橋15万石の殿さまとして明治維新を迎えました。

松平秀康は父の家康に愛されなかった、といいます。生母の身分が低かったためか、あるいは家康が双子(秀康は双子の1人として産まれた)を良く思わなかったためか。それで豊臣秀吉の元に人質として送られ、やがて秀吉の差配で、結城家の養子となります。結城家は小山朝政の弟である朝光が興した有力家で、両家はずっと密接な関係を有し、室町時代に小山の家が絶えると、伝来文書の一部は結城家に入ったのです。

結城家はやがて戦国大名となり、秀吉に臣従します。そして秀康を養子に迎え、彼に家の財産が譲られることになりました。ところが家康が天下人となると、秀康は越前を拝領して結城の地を離れ、松平姓に復しました。結城家は結局、大名家としては消滅します。ただし、秀康は五男の直基に結城家の祭祀(さいし)の続行を命じました。結城と小山の文書は、そのために直基の管理するところとなったのです。

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