76年前の話になる。昭和20年4月、こののち戦争の幕引きを行う鈴木貫太郎(かんたろう)内閣が発足した。二・二六事件(11年)で九死に一生を得た海軍出身の老将は77歳。絶望的な戦局の中で、徹底抗戦、本土決戦の構えを崩さない軍人を牽制(けんせい)しつつ講和の道を探るという〝針の穴にラクダを通す〟ような難しい、かじ取りを任されることとなった。
鈴木内閣に下村宏(しもむら・ひろし)(海南(かいなん))が国務相・情報局総裁として入閣している。終戦の詔書(しょうしょ)を天皇陛下がラジオで伝えた、いわゆる「玉音(ぎょくおん)放送」の実施に深く関わったことで知られる人物だ。下村も古希が近い。〝最後の御(ご)奉公〟と心に期するところがあったのだろう。入閣後の5月、遺書をしたためている。
自著『終戦秘史』(25年)によれば、首相の鈴木宛(あ)ての遺書では《三国同盟及(および)大東亜戦に干与(かんよ)せる…重臣は…その進退を明にすること》として、東条英機(ひでき)(開戦時の首相)や近衛文麿(このえ・ふみまろ)(日中戦争勃発時の首相)、松岡洋右(ようすけ)(三国同盟締結時の外相)らを名指しして、隠居や辞任を求めた。まだ戦争が終わっていない時期に、である。