勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(280)

阪急の幸運 ドラフト大豊作 11番目でも山田指名

阪急の山田久志投手
阪急の山田久志投手

■勇者の物語(279)

幸枝夫人と結婚当初、小さなアパート住まいだった山田だが、11年後の昭和57年には兵庫県西宮市苦楽園、大阪の街が一望できる高台に敷地面積460平方メートルもある10DKの大豪邸に住んだ。

余談だが、巨人から阪神に移籍した小林も苦楽園にマンションを借りた。小林にとって山田は目標であり憧れの人。「俺もいつかヤマさんのように、あの高台に…」とベランダから三番町の高台を見上げては闘志を燃やしていた。

山田が下手投げになったのは秋田・能代高2年生のときだ。当時、三塁手だった山田は夏の県予選(準々決勝)で、1―1の同点で迎えた九回2死満塁で三ゴロを下手から投げ、一塁側観客席へ飛び込むサヨナラ悪送球。責任を感じた山田は「退部」を申し出た。すると、監督が「それなら生涯、下手で投げろ」と、山田を投手に転向させた。

山田は能代高から社会人野球の富士製鉄釜石に進んだ。42年の都市対抗では1回戦で優勝候補の日本生命に完封勝ち。注目を集めた。そんな山田を阪急の藤井道夫編成部長が見逃すはずがなかった。

43年の初夏、日生球場での社会人大阪大会で山田を見た藤井は「ことしのドラフト1位は山田で決まりや」と確信した。43年ドラフト、阪急はくじ運が悪かった。なんと指名順位11番目。「これでは山田は指名できん」と藤井は嘆いた。

ところが、この年のドラフトはプロ野球史上空前の大豊作。田淵、富田、山本の〝法政三羽ガラス〟。明大の星野、近大の有藤、駒大の野村…と大学生に有望株がめじろ押し。高校生でも武相高の島野や箕島高の東尾に注目が集まり、阪急が指名する11番目まで山田が残っていた。

当時、山田は腰を痛め、各球団から「即戦力にはならない」と指名を敬遠されたことも阪急には幸いした。

山田は自ら入団を遅らせた。当時のことを後年、藤井部長はこう語った。

「入団して治療に専念してもいい。普通の選手ならそうしたやろ。けど、ヤマは『きっちり治してからでないと申し訳ない』というてな」

山田は故障を完治させ、44年の都市対抗に出場したあと、阪急と正式契約を結んだ。背番号はスペンサーの付けていた「25」。

「ヤマとはそういう子なんや」。藤井は誇らしげに語った。(敬称略)

■勇者の物語(281)