天才肌の「理論屋」 死去の益川敏英さん

京都産業大学教授の益川敏英氏=2008年10月29日、京都市北区の京都産業大学(鳥越瑞絵撮影)
京都産業大学教授の益川敏英氏=2008年10月29日、京都市北区の京都産業大学(鳥越瑞絵撮影)

物質の根源を探る素粒子論の研究でノーベル物理学賞を受賞した益川敏英(としひで)さんの死去が伝えられた29日、関係者から悼む声が相次いだ。

中高生の頃から数学と物理の成績はずば抜けていた。自身を「理論屋」と呼んだ。天才肌で、ノーベル賞に輝いた新理論は風呂から上がった瞬間に思い付いた。

名古屋大時代の後輩で、ともに研究して受賞した高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授の小林誠さんは「独特の論理を持っており、議論することがとても有益だった。残念でならない」との談話を出した。

教えを受けた京都大特任教授の九後(くご)太一さんは「益川さんが次々に新しいアイデアを考えて『さあどうだ』と披露し、小林さんが『それはうまくいかないね』などと冷静に返すことを繰り返して、偉大な理論を練り上げていった」と振り返る。

益川さんは英語が苦手なことで知られ、海外渡航もノーベル賞の授賞式への出席が初めてだった。ユーモアがあり、気さくな人柄で親しまれた。

小柄だが声は大きく、学問の議論では常に強気の「益川節」。優れた先見性で研究室だけでなく、他大学などとの共同プロジェクトでもいつもリーダー役だった。九後さんは「もっと益川節を聞きたかった」と惜しんだ。

戦時中に名古屋市内の自宅に焼夷(しょうい)弾が落ちた。不発弾だったため難を逃れたが、この記憶が焼き付き、反戦活動にも力を注いだ。