勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(279)

二人三脚 山田200勝 夫婦で勝ち取った「勲章」

完投でプロ通算200勝を達成した阪急・山田久志投手(中央)。試合後、名球会の皆川睦雄氏(左)、米田哲也氏から記念ブレザーを着せてもらい祝福された
完投でプロ通算200勝を達成した阪急・山田久志投手(中央)。試合後、名球会の皆川睦雄氏(左)、米田哲也氏から記念ブレザーを着せてもらい祝福された

■勇者の物語(278)

4月29日、西宮球場が歓喜で包まれた。エース山田がプロ17人目の200勝を達成したのである。

◇4月29日 西宮球場

ロッテ 011 012 001=6

阪 急 311 000 04×=9

(勝)山田3勝2敗

〔敗〕仁科1勝1敗

(本)加藤英⑤(仁科)有藤③(山田)中沢②(仁科)落合②③④(山田)小林②(仁科)

最後の打者、リーの打球は右翼簑田のグラブに収まる。スタンドはまるで優勝が決まったかのような大歓声。山田は受け取ったウイニングボールをその歓喜のスタンドに投げ込んだ。

「プロ入りしたときは200勝なんて夢のまた夢。正直ここまでやれるとは思わなかった」

山田には〝過ぎたるもの〟が2つある―といわれた。ひとつはシンカー、そしてもうひとつが幸枝夫人だ。

2人のスタートは昭和46年、小さなアパート。当時の年俸は180万円。「本当にミカン箱がテーブル代わりで、ストッキングやアンダーシャツが破れたら、つぎを当てて使っていた」という。

46年の日本シリーズ、山田は第3戦で王にサヨナラ3ランを打たれた。その夜、銀座や六本木に憂さ晴らしに出かけた山田の行きそうなお店に先回りし、幸枝夫人が「きょうは好きなだけ飲ませてやってください」と電話をかけていた―というのは有名なお話。

こんな逸話もある。50年、山田は12勝10敗と不本意な成績に終わった。速球派のルーキー山口が脚光を浴びる。「もうオレの時代は終わった」と山田は「引退」を決意した。ところが幸枝夫人が立ちはだかった。

「そんな意気地のないことでどうするの! 辞めるのはすぐにでもできる。死ぬ気で1年やって、燃え尽きてからでも遅くはないわ」

幸枝夫人の言葉に山田は生き返った。51年の高知キャンプ、宿舎の前を流れる鏡川に夫婦2人で写経した般若心経を流して再起を誓った。そして、その51年シーズンに26勝7敗5Sをマーク。最多勝のタイトルを獲得したのである。

試合後、先輩の米田哲也と皆川睦雄(元南海)から着せてもらった「名球会」の記念ブレザー。夫婦二人三脚で勝ち取った〝勲章〟である。(敬称略)

■勇者の物語(280)