ボクらの祝祭

テレビにくぎ付けになった 鹿間孝一

東京・新橋付近の街頭テレビで東京五輪の番組を見る人たち。当時は一般家庭にテレビが普及していなかった=昭和39年(1964年)10月21日、東京都港区
東京・新橋付近の街頭テレビで東京五輪の番組を見る人たち。当時は一般家庭にテレビが普及していなかった=昭和39年(1964年)10月21日、東京都港区

連日、テレビでTOKYO五輪を観戦している。振り返ると、1964年の東京五輪もテレビにくぎ付けだった。僕だけではない、日本中が。

「東洋の魔女」が宿敵ソ連を破って金メダルに輝いた女子バレーボール決勝は、視聴率66・8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録した。スポーツ中継ではいまだに歴代最高である。

東京五輪には史上初がいくつもある。通信衛星を使ってオリンピックが初めて世界に中継された。前年の63年11月23日早朝に行われた日米間の衛星中継の実験で、太平洋をまたいだ電波に乗ってケネディ大統領暗殺という衝撃的なニュースが飛び込んできたのは忘れられない。

東京五輪の女子バレーボールで優勝し大松監督を胴上げする選手たち=1964年10月23日、駒沢球技場
東京五輪の女子バレーボールで優勝し大松監督を胴上げする選手たち=1964年10月23日、駒沢球技場

もう一つはテレビのカラー化である。NHKで多くのスポーツ中継の携わった杉山茂さんの「テレビスポーツ50年」(角川書店)によると、まだカラー放送用の機材が少なく、2台の中継車と4台のカメラをフル回転して、開・閉会式と一部の競技をカラー放送したという。これを機にカー(自動車)、クーラー、カラーテレビがあこがれの的になる「3C時代」を迎える。

わが家はもちろん白黒テレビだったが、記憶に鮮やかな色がついているのは、市川崑監督の「東京オリンピック」のおかげだろう。「記録か芸術か」で論議を呼んだこの映画は、独自の視点で感動を呼び覚ましてくれ、中学生だった僕にも傑作と感じられた。

テレビはオリンピックそのものを変えた。スポーツは視聴率を稼げる魅力的なコンテンツである。その頂点の大会の放映権料は天井知らずに高騰し、国際オリンピック委員会(IOC)の最大の収入源になった。なかでも米国のテレビ局との契約は桁違いに大きく、その意向で開催時期や競技スケジュールが左右される。TOKYO五輪が猛暑の夏になったのも、競泳の決勝が午前中に行われるのも、他の人気スポーツのシーズンとかち合わないように、さらにはゴールデンタイムに合わせる米国の都合である。

オリンピックの観客はテレビの前にいる。だから競技会場が無観客であっても開催できると言っていい。選手にとって、応援や拍手、歓声、嘆声が聞こえないのは物足りないだろうが。

オリンピックには魔物が棲(す)むという。実力があっても本領を発揮できずに消えていく選手が少なくない。金メダルが期待された体操男子種目別鉄棒の内村航平選手、競泳男子400メートル個人メドレーの瀬戸大也選手が予選を通過できなかったのは「まさか」である。

新型コロナウイルス禍による1年延期が、ベテランの調整を微妙に狂わせたのか。せっかくの地元開催なのに、スタンドの大声援で後押しできないのが歯がゆくてならない。

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