簡潔、省略の美学に宿る今日性 没後60年、ヘミングウェイの英文に迫る書籍続々

米作家ヘミングウェイの英文に焦点を当てた書籍が刊行されている
米作家ヘミングウェイの英文に焦点を当てた書籍が刊行されている

戦争を題材にした『武器よさらば』『誰がために鐘は鳴る』などの小説で知られ、7月で没後60年を迎えた米国の文豪、アーネスト・ヘミングウェイ(1899~1961年)。ハードボイルド探偵小説にも影響を与えたこの作家の、装飾語や感情表現をそぎ落とした簡潔な英文の魅力に迫る書籍が相次ぎ刊行されている。戦争体験での喪失感から新たな生き方を模索した「失われた世代(ロスト・ジェネレーション)」を代表するノーベル賞作家の革新性や今日性が見えてくる。

「英語というのはこんなにも素朴で簡単な言葉であっても、かなり際どいことを表現し得る。ヘミングウェイはその実例です」と話すのは『英文学教授が教えたがる名作の英語』(文芸春秋)を4月に出した東京大の阿部公彦(まさひこ)教授(英米文学)だ。ヘミングウェイは大部分が水面下に隠れている氷山を念頭に、あえて書かないことが物語により強いインパクトを与えるという「氷山理論」なる省略の技法を唱えた。

同書で抜粋される、キューバ人老漁師と巨大カジキとの格闘を描く名編『老人と海』(52年)でも省略を駆使したシンプルな文章が緊張感を生んでいる。書かれていない人物の心の奥を読者に想像させ、同時に老漁師が立ち向かう自然の底知れなさも増幅させる。阿部さんはそんな簡潔な文体に、今日性を見て取る。

「現代社会は複雑化、多元化していて昔のような安定した一つの世界観は抱きにくい。自分の思いを言語化することは容易ではないけれど、間違いなくそんな状況を生きている人々が今たくさんいる。ヘミングウェイの寡黙な語りは、言葉の限界を超える可能性をはらんでいて、自分、そして世界の『分からなさ』自体を表現することにつながっている」

名短編を教材にした学習書は人気で、一昨年刊の『ヘミングウェイで学ぶ英文法』(倉林秀男、河田英介著・アスク出版)は7刷5万部に達し、続編も出た。通読しやすい短編を選び、読解のカギとなる文法を解説している。例えば続編に収められた深夜のカフェを舞台にした「清潔な明るい場所」(33年)。会話の話者を示す名詞句の構造や、仮定法を正しく理解することで、謎めいた雰囲気の物語に潜む登場人物の孤独と虚無感に思いが至る。

学び直しに使う中高年が多いが、若い学生の反応もいいという。担当編集者の森田修さんは「シンプルな語彙で物語に深みを出せるのは文法上の工夫があればこそ。その意味でヘミングウェイ作品はうってつけだった。文学作品で英文法を学ぶ手法が、スピーキング偏重の英語教育に慣れた若い世代には新鮮に映っているのでは」と語る。

関西学院大の小笠原亜衣教授(モダニズム文学・芸術)による3月刊の『アヴァンギャルド・ヘミングウェイ パリ前衛の刻印』(小鳥遊(たかなし)書房)はその文体の起源に迫る。今からちょうど100年前、22歳で前衛芸術の中心・パリに渡ったヘミングウェイはセザンヌやピカソの絵画など視覚芸術の洗礼を受け、散文実験を重ねた。小笠原さんはそこに「文豪」という枠にとどまらない「メディア・アーティストとしての今日的な魅力」をみる。

「ヘミングウェイは文字芸術の限界を突破して、絵画や映画のような散文を書こうとした。散文の4次元・5次元がある、という言葉も残している。身体感覚を伴って経験できるほどの臨場感を持つVR(仮想現実)のようなものをすでに目指していたといってもいい」

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