勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(276)

ミスターの心 「2浪」決意 巨人以外のユニホームは着ない

大洋の獲得表明について「そのつもりはない」と否定する長嶋茂雄氏
大洋の獲得表明について「そのつもりはない」と否定する長嶋茂雄氏

■勇者の物語(275)

西武の堤オーナーが「広岡監督」案を承認した理由は、広岡を推薦した根本監督への〝信頼〟だけではなかった。この年の9月、恋い焦がれた長嶋茂雄が「2浪」を決意していたのである。

長嶋を「監督に」と求めたのは西武だけではない。横浜大洋ホエールズも「ウチを再建できるのはあなたしかいない。すべてをあなたに委ねます。どうかこの願いを聞き届けてほしい」という大洋漁業・中部藤次郎社長の「親書」を、6月上旬に第三者を通じて長嶋に手渡していた。

大洋は本気だった。長嶋が大リーグ視察から帰国する前日の9月16日には、東京・丸の内の大洋漁業本社で、中部社長をはじめとする本社上層部による緊急会議を開き、スタッフの人選、トレード、外国人選手の獲得、ドラフト、さらには球団フロントの人事権すべてを長嶋に与える―という「全権委任」を決定した。

昭和53年、大洋は本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移し、球団名にも都市名を入れ『横浜大洋ホエールズ』に生まれ変わった。翌54年は2位に躍進。だが、55年以降チームの成績は下降線をたどり始めた。「投手の弱体化」「ベテランの高齢化」「外国人選手の不発」。

55年のドラフトで地元、東海大の原辰徳を巨人に奪われると、観客動員数が激減。56年シーズンはその巨人に8連敗するなど、首位巨人に31・5ゲーム差をつけられる断トツの最下位。「横浜スタジアムには閑古鳥も寄りつかない」とまで言われた。

横浜大洋の救世主に…。だが、その願いはかなうことはなかった。

9月24日午後10時過ぎ、東京・田園調布の自宅前で100人近い報道陣に長嶋は胸の内を語った。

「この長嶋に愛の手を差し伸べてくださったことは嬉しく思います。大洋側の誠意を本当にありがたいと思っています。中部社長から頂いたお手紙にも胸を打たれました。ですが…この1年で、23年間の汗と錆(さび)を拭い去ることはできませんでした。充電をもう1年やろうと思います」

いや、あと何年、充電期間を延ばしても「長嶋さんは巨人以外のユニホームは着ない」。それがミスターの心―だと、その場にいた記者たちはみな理解したという。(敬称略)

■勇者の物語(277)