【勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(273)】西本「勇退」「監督業」は立教大が始まり - 産経ニュース

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勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一(273)

西本「勇退」「監督業」は立教大が始まり

背番号68のユニホームともお別れ。退団会見のあとユニホームを寂しそうに見つめる西本幸雄監督
背番号68のユニホームともお別れ。退団会見のあとユニホームを寂しそうに見つめる西本幸雄監督

昭和56年に話を戻そう。10月2日、近鉄・西本幸雄監督の「勇退」が発表された。きっかけは一部スポーツ紙のスクープ。9月13日に「腹は決まっとるが、いま言えば迷惑がかかる」という西本談話を掲載。『西本監督、今季限り』シーズン終了を待って辞任―と報じたのだ。

西本監督が初めて球団へ「辞意」を漏らしたのは9月初旬。持病の「胃潰瘍」が悪化したのがきっかけだった。61歳という年齢からくる体力の低下と成績不振。「身の引き時」と判断したようだ。

さらに、選手やフロントへの不満もあった―といわれている。大事な場面で踏ん張り切れない選手たち。これまでなら一喝すれば言うことを聞いた選手たちも、最近では陰で舌を出している―とまで。そしてマニエルの放出…。

「新しい指導者を迎え、私の果たせなかった心残りを払拭してほしい。お世話になりました」

大阪・上本町の電鉄本社。約100人の報道陣の前で西本は頭をさげた。

35年に別当薫の後任として大毎オリオンズの監督に就任して以来、阪急、近鉄と約20年間。その監督生活に終止符を打った。実は西本に〝監督〟という肩書が付いたのは大毎オリオンズが最初ではない。ここで西本ショート物語―。

大正9年、銀行家の息子に生まれた西本は、野球とは縁遠い子供時代を送っていた。「父はワシを優秀なサラリーマンにしようと思っていたようで、中学生になるまで野球は禁じられとった」という。

旧制和歌山中のとき、早大へ通っていた長兄から「体だけは鍛えておけ」と勧められ、ラグビーを始めた。ところが野球部から「欠員ができた。お前、こい」と無理やり引っ張り込まれ、投手や一塁手をやらされた。これが西本と野球との出合いである。

中学を卒業した西本は立教大学へ進学した。「立教ならうるさい先輩も少ないし、ワシでもレギュラーになれるかな―と思った」という。予科3年生のとき「一塁」に定着し「主将」を務めた。度胸があり、選手に慕われる頼もしい主将だった。当時、立教大は監督が不在。そこで評判を聞いた学校側は西本に「兼任監督」を命じた。西本の「監督業」はここから始まったのである。(敬称略)