話の肖像画

デザイナー・コシノジュンコ(81)(19) パリコレ、重圧と向きあった22年

パリコレには22年にわたって参加。いずれも緊張感が漂うものだった
パリコレには22年にわたって参加。いずれも緊張感が漂うものだった

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《1978(昭和53)年10月。パリコレクションへ、初参加を果たす。デザイナーにとって「パリコレ」とは、どのような存在なのか》


会場はパリの伝統あるナイトクラブ「テアトル・ル・パラス」。中国で感じたものや今まで培(つちか)ってきたものをすべてこのショーにぶつけました。

テーマは「プリミティブ・オリエンタル」。スキンヘッドの男性が銅鑼(どら)を「ゴーン」と叩(たた)くドラマチックなシーンから、ショーが始まります。日本や中国の文化を融合し、自身を投影させたショーは大成功。各国のメディアやバイヤーから高評価を得ることができました。

パリコレに参加したことによって文字通り、世界が広がった。デザイナーとして認められた、というような感覚になりました。

パリコレには2000(平成12)年まで22年、参加していますが、緊張しなかった年はありません。世界中の記者やバイヤーが集まる中でのプレッシャーは計り知れないものです。

ショーの最後、あいさつに出る際、ランウエーへと続く階段を上るときは緊張で毎回足が震えました。たった2段の階段なのに。

パリコレにかける予算は桁違い。そのうえ、「どういう評価を下されるのだろうか」と気が気ではない。こればかりは何度やっても慣れませんでした。

パリコレはとにかくハプニングだらけ。衣装を含めた荷物が時間通りにやってこなかったり、ドタキャンをするようなルーズなモデルや現地スタッフもいました。フランスでは飛行機や地下鉄などの公共交通機関でストライキが起こることも当たり前で、これと被(かぶ)ってしまう、なんていうこともありました。準備を無事に終えることができるだけで、ほぼ成功というくらいに問題が山積でした。

また準備だけでなく、幕が下りるまで、何があるのかわからないのもパリコレです。

1980(昭和55)年3月のパリコレ。なんと天下の「シャネル」とショーの時間が丸被りしてしまったのです。日程調整などを任せていた現地のコーディネーターのミスでした。

本番直前になっても会場にはゲストがまばらにしか入場していなくて、そこで初めて気づいたのです。モードの本丸・シャネルを外すファッション関係者はいませんからね。最後のあいさつでは、恥ずかしいやら悔しいやら…。一生忘れることはないでしょう。それでもパリコレは、日本では味わうことのできない優雅さやエレガントな空気を体感できる唯一無二の空間。本当にいろんな勉強をすることができました。


《その後、1989(平成元)年に、高級ブランドが立ち並ぶパリ・アベニューモンテーニュにブティックを出店する》


ブティックは元銀行だった重厚な建物に出店。店内はショーができるくらいの広さでした。

パリでは9月にワインの収穫祭を行うので、各ブランドは秋のショーではゲストにワインをふるまうのが恒例です。日本のブランドということで、うちは日本酒をマスにいれてふるまいました。さまざまなファッション関係者やセレブたちと交流する―。こういった国際的な経験ができたこともよかったですね。

ただ、ブティックはパリで最も家賃が高い場所だったため、張り切りすぎてしまいました。家賃のためにお店をやっているみたいになってしまって。もう少し気楽にやってもよかったのにな、と今なら思います。(聞き手 石橋明日佳)

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