真珠のような光沢のシルバーを背景色とした縦約2メートルのキャンバスに、鮮やかな色彩の無数の線が揺らめくように四方八方へ広がっている。百花繚乱(りょうらん)を思わせるが、花々ではない。画面上部には人の顔らしきものが描かれている。
花弁のように見えたのは人の手や足とおぼしきもの。柔らかな肌と皮膚を透ける静脈の色なのか。それらは人の身体の本来あるべき場所に収まっておらず、図像的で、千手観音のようでもある。
水野暁(あきら)の作品「Mother」(2017-2018年)は、パーキンソン病を患い不随意的に動く母の姿を捉えたものである。
水野は1974(昭和49)年、群馬県東吾妻町出身。多摩美術大学で油絵を学び、1999(平成11)年以降、たびたびスペインを訪れ、制作の傍ら美術解剖学も学んだ。2014(26)年には、文化庁の新進芸術家海外研修制度により1年間マドリードに滞在し、制作している。
現場で描くことに重点を置き、写実表現の可能性を探求し続ける。身近な動植物や郷里の山河、人物などを表層的なイメージではなく、誠実なほど克明に描いてきた。
一方で、緻密な描写で完成度を高めていくことでは「表現したいものとズレが生じてくる」と水野はいう。大地が隆起した神々しい山であれ、アトリエの庭の草木であれ、対象物の大小にかかわらず、そこに在るものの真実性を追求し描いていくと、当然のことながら雲は流れ、日差しは傾き、移ろいゆく時間の中で変化が起きてくる。
見たままを可能な限り正確に描くのは、決してたやすいことではない。目にした情景を映し取るというなら「写真を撮ればよい」と考える人もいるだろう。だが、事実以上のものを描き出すことができるのも、絵画である。
作品「Mother」は一筆たりとも想像ではなく、すべて母を見ながら描いているという。目の前の情景を切り取った作品とは異なり、1枚のキャンバス上でドローイング(線描)を幾重にも積み重ねることで、時間の堆積のみならず、ゆらぐ現実までも描いているということだろう。
「描きたいものは自分の触れている物や空間、いわばこの世界そのもの」という水野にとって、描くことは「目で触れる」ことに近いという。見て感じた色彩、空間を満たす光や音までを「描く」という行為で確かめている。
では、どこまで、どう描いたら、対象を描いたといえるのか。水野のいう「確かめたい」という欲求に、終わりはないのかもしれない。
「Mother」は、高崎市美術館(群馬県高崎市)で始まった「メモリーズ 写真、絵画、彫刻でたどる記憶の旅」で、「16歳で描いた母の肖像」(1990年)や関連ドローイングとともに展示されている。
新しい「家族写真」の世界をつくりあげた写真家・浅田政志や、日本古来の技法を用いて現代の肖像表現を続ける下仁田町出身の彫刻家・三輪途道(みちよ)ら、水野を含め県内外の7人が出品している。8月22日まで。
(アートコーディネーター 笹木理恵)