日曜に書く

論説委員・別府育郎 野球とオリンピック

東京五輪

1964年10月、東京五輪開会式で国立競技場に聖火が灯(とも)った翌日、神宮球場で五輪公開競技として野球の日米戦が行われた。米国学生選抜と日本学生選抜、社会人選抜との変則ダブルヘッダーだった。外野の芝生席は小中高校生に開放され5万人の観衆で埋まった。

日本学生選抜は大下剛史ら駒沢大勢を中心に慶応の広野功、立教の土井正三、中央の武上四郎、末次民夫(利光)らで組まれた。竹之内雅史ら日本通運中心の社会人には日本コロムビアの近藤重雄らが加わった。いずれも後にプロで活躍する。米国の主砲マイク・エプスタイン、エースのチャック・ドブソンら多くも大リーグに進んだ。

当時の各紙はほぼ勝敗のみを伝え、映像もスコアブックも残っていないが、当時の「日本社会人野球協会会報」が、詳細な「観戦記」を掲載している。

これによると、学生対決は米国のフィッツモリスが先頭打者本塁打で先制。その裏、日本は先発ボスワーズの制球難から同点とし、米国打線はその後、木原義隆(法政)の下手投げに苦しんだ。日本は中盤、敵失で勝ち越したが、最終回に失策を重ね、2―2で引き分けた。社会人は先発ドブソンの速球に手も足も出ず0―3で完敗した。

日本の1分け1敗が、昭和の東京五輪の野球の記録である。

秘史

千葉・習志野高校2年の谷沢健一は野球部の仲間とともに左翼席で観戦した。学生の奮闘に感動し、早稲田大学に進んで18本塁打を放ち、中日で活躍したプロ野球では通算2062安打を記録した。小中高生の観覧にはこうした効用もある。

米国チームは、南カリフォルニア大監督のロッド・デドーが率いた。社会人戦の主審は、後に「アマ球界のドン」と称される山本英一郎が務めた。

「社会人野球会報」では米国チームを渉外担当として世話した大館勲夫が「全米学生軍に学ぶもの」と題し、その規律の厳しさやチームプレーの徹底ぶりを称賛していた。

大館はハワイ生まれの柔道家で、戦後は怪力を買われてプロ野球入りし、毎日などで活躍した。52年の「平和台騒動」では伝説も残した。毎日の露骨な遅延行為に怒った西鉄ファンがグラウンドになだれ込んで警官隊に排除された。ファンの怒りは収まらず、毎日の宿舎に押しかけて殺気立つ集団を前に一人で対峙(たいじ)し、頭を下げたのが大館だった。気性の荒い博多のファンらもその男気に気押され、「あんたはよか男ばい」と握手を求めたのだという。

野球を五輪正式競技とする展望を開いたのはエキシビションとして8カ国でメダルを争った84年ロサンゼルス五輪である。開催の立役者はドジャースのオーナー、ピーター・オマリーとロス五輪でも米国代表を率いたデドー、そして山本だった。

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