池袋公判

父親の上原義教さん、意見陳述全文

5、莉子が生まれてから

真菜が結婚して千葉に行ってから、真菜は月に1、2度は手紙をくれ、電話はしょっちゅうかけてくれました。

莉子の出産のため、沖縄に里帰りしたので、私は生まれた日に莉子に会うことができました。生まれた時から真菜によく似ていて、本当に嬉しい気持ちでいっぱいでした。

しかし、莉子が生まれて少ししてから、最愛の妻が突然、くも膜下出血で亡くなりました。私の幸せな人生は、妻との出会いから始まっており、色々なことを妻に頼りっぱなしでしたので、その時の喪失感は自分でもどうすることも出来ず、ただただ辛くて落ち込みました。

子どもたちはそれは分かっていましたので、私のことを心配してくれて、沖縄から離れた真菜は私にスマホを買ってくれました。おかげで、莉子とは毎日のようにテレビ電話で話をし、月に1回は真菜から写真や手紙をもらい、莉子の成長を見ることができました。真菜は年に3、4回は友達の結婚式などで莉子を連れて沖縄に帰っていたので、東京と沖縄で離れていたのに、莉子は私にもよく懐いてくれて、私のことを「じじ」と呼んでいました。

そのうち、拓也君と真菜は、沖縄で生活することを決めたとのことで、真菜はパティシエである四女と一緒にカフェをやろうと考えていたようでした。私は中華料理店の厨房で働いていたことがあるので、そこで料理も出して、皆で暮らせる日を楽しみに毎日を過ごしていました。

5、真菜・莉子と最後に話した時のこと

最後に真菜と莉子とビデオ電話で話したのは、事故の数日前のことでした。5月に2人で沖縄に来る予定になっていたので、その時に着るためのセパレートの水着を、莉子が画面越しに見せてくれました。その際、莉子が「かき氷を食べたい」と言ったので、莉子の食にはとても厳しかった真菜に、「年齢とともに少しずつあげていくよ」と言うと、真菜は了解してくれて、「かき氷機ある?」と聞いてきました。そこで、私はしばらく使っていなかったかき氷機を探し出して、画面越しに莉子に見せると、莉子はとても楽しみにしている様子でした。それが、真菜と莉子と直接話をした最後になってしまいました。

6、事故の日から葬儀まで

事故のことは、拓也君から14時頃に電話があって知りました。拓也君は泣きながら「これから病院に向かいます」と言っており、私は着替えの準備もせず、急ぎ上京のため移動を始めました。その途中で再び拓也君から電話があり、真菜と莉子が亡くなったことを知りました。私は、直接二人に会って確認するまではとても信じられないという気持ちでした。当日のうちに東京に着きましたが、真菜と莉子の遺体は警察署にあったので、二人に会えたのは翌日でした。

莉子は損傷が激しすぎて、ご遺体を見られませんでした。その後、私自身おかしくなったような感じで、葬儀の時も夢見ているような感覚でした。皆が帰った後も、私と拓也君は残り、一緒に夜通し泣きながら、二人に「痛かったね」と語りかけたりしました。私は莉子ちゃんの手を握って「ごめんね。じじが代わってあげられなくて」と謝りました。二人が別々の棺だったのが可哀そうでした。真菜は母親に似て優しい子で、自分のことよりも誰かのために、というのが強い子でした。育児日記も毎日書いていて、沖縄に帰っている時も夜遅くにテーブルに座って、その日の出来事を事細かに驚くほど丁寧に書いていたものです。ですから、真菜も莉子も別々で寂しいだろう、と心が痛みました。

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