池袋公判

夫の松永拓也さん、意見陳述全文

莉子はお母さんが大好きで、どこに行くにも、何をするにも二人は一緒でした。私が仕事に行っている間、二人でおやつを手作りしたり、公園に遊びに行ったり、買い物に行ったり、全て一緒でした。

仕事で不在の私がそれを知っているのは、真菜が育児日記を書いていたからです。二人だけの出来事や、「お父さんと初めて言えた」「初めてトイレができた」など、莉子が生まれてから千日以上の記録です。家事育児に疲れ果てながらも、一日も欠かさず書き残してくれました。この育児日記は、真菜の人柄と莉子への愛が詰まった私の宝物です。二人の生きた証です。証拠にもあるので、是非ご覧頂きたいです。

私が休みの日は、3人で色々なところへ行きました。春は花見、夏は海やお祭り、秋は紅葉を観に行き、冬は莉子が好きだった温泉に。暖かい日は、真菜の手作りパンを持って、3人でよくピクニックに出かけました。一番の思い出は、平成30年に北海道へ家族旅行をしたことです。見渡す限りの広大な大地を3人で走り回ったことや、旭山動物園でキリンを目の前で見てはしゃぐ莉子の嬉しそうな顔をよく覚えています。どこに行くにしても、3人で手をつないで出かけました。

ある日の夜、莉子を寝かしつけたあと、真菜が遠慮気味にこう言いました。「3人で沖縄に移住したい。そして海のそばに、中古でいいから、小さくていいから家を買って、そこで生きていきたい」、その言葉を聞いた私は、なんて真菜らしく素敵な夢なのだろうと思い、平成32年に沖縄に移住しようと約束しました。

移住の準備を続けながら、穏やかに3人で幸せな日常を過ごしました。莉子は成長して、学校に通い、大人になって独り立ちして、真菜と命果てるまで一緒に生きていく。漠然とそう思っていました。

4、事故の時のこと

平成31年4月19日。

仕事の日は必ず二人がお見送りをしてくれて、玄関で3人抱き合いながら「いってきます」「いってらっしゃい」を言い合うのがお決まりでした。あの日もそうでした。まさか、それが最後のお別れになるなんて思ってもいませんでした。

昼休みに真菜と莉子にテレビ電話をするのが日課なので、いつも通りテレビ電話をかけると、二人は南池袋公園で遊んでいて、今から帰ると言っていました。「自転車なんて珍しいね、気をつけて帰るんだよ。今日は定時で帰るよ。」と伝えました。

14時ごろ、仕事中の私の携帯電話に警察から電話があり、真菜と莉子が事故に遭ったと告げられました。無事なのか、命はあるのかと聞いても詳細は教えてもらえませんでした。突然の知らせに混乱しつつも、両親と沖縄のお義父さんに連絡をし、電車に飛び乗って病院に向かいました。「これは夢だ」と何度も自分に言い聞かせました。その時、私の携帯電話にニュース速報が飛んできました。「池袋の事故、30代と思われる女性と、3歳位の女児が心肺停止」。手足がガタガタと震えだし、電車の床に座り込んでしまいました。震える手で真菜に「無事でいてくれマナりこ」とLINEを送りましたが、いつになっても既読にはなりませんでした。まさに地獄のような時間でした。

病院に到着すると、医師から「即死でした」と宣告されました。私は泣き叫ぶことしかできませんでした。身元確認のため、二人の遺体の元へ案内されました。真菜の顔にかけられた布をめくると、あんなに美しかった真菜の顔は、傷だらけで、氷のように冷たくなっていました。次に莉子の顔を見ようとすると、看護師が気まずそうに、「お子様のお顔は見ない方が良いと思います」と言ってきました。顔にかけられた布がうっすらと血で染まっており、状況を察しました。小さな手を握っても握り返してくれることはなく、生まれたときの温かい手、いつも3人で繋いでいた手とあまりに対照的で、底知れぬ絶望を感じました。

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