おかっぱ頭の12歳の少女が演奏を終えると、審査員全員が拍手していた。「天才」「悪魔の子」といった感嘆の声も聞こえてくる。バイオリニストの辻久子さんは昭和13年、クラシック界の登竜門だった音楽コンクールで断トツの1位となった。
▼辻さんをモデルにした小説『道なき道』にこんな場面がある。辻さんのもとに詰めかけた新聞記者やレコード会社の関係者に父親が一席ぶつ。「天才…? 莫迦莫迦(ばかばか)しい。天才じゃありません。努力です。訓練です。私はもう少しでこの子を殺してしまうところでした」。作者の織田作之助が誇張して書いたわけではない。
▼辻さんは6歳から、独学でバイオリン奏者になった父親にしごかれた。練習中は容赦なくげんこつが飛んでくる。小学3年のとき室戸台風で小学校の校舎が倒れた。駆けつけた父親の第一声は「指は大丈夫か」である。まもなく学校もやめさせられた。小説は、東京から大阪に帰る汽車のなかで、父親が娘をこれまで以上に苛(いじ)め抜くと決意したところで終わる。