話の肖像画

デザイナー・コシノジュンコ(81)(13)EXPO’70に3つの斬新なユニホーム

大阪万博で担当した3つのユニホーム。左からタカラ・ビューティリオン、ペプシ館、生活産業館(国立新美術館で開催中の企画展「ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会」から)
大阪万博で担当した3つのユニホーム。左からタカラ・ビューティリオン、ペプシ館、生活産業館(国立新美術館で開催中の企画展「ファッション イン ジャパン 1945-2020―流行と社会」から)

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《1970(昭和45)年、大阪万博が開催される。気鋭のデザイナーは、タカラ・ビューティリオン、ペプシ館、生活産業館―の3つのパビリオンでユニホームを担当することとなった》


ユニホームのデザインを担当することになったのはさまざまなご縁からです。

新宿の「ナジャ」というパブに毎晩入り浸っていたころ。そこには、画家やアーティストたちがたくさん集まっていて。集まった人々はみんな友達関係だった。その中に、建築家の黒川紀章さんがいらっしゃって、いつも端っこで飲んでいた。もちろん黒川さんとも飲み仲間です。

黒川さんはタカラ・ビューティリオンのパビリオンのプロデューサーを務めていた。「僕がプロデュースするパビリオンのユニホームを作ってくれない?」と声をかけてくれたのです。

あとの2つも、作曲家の一柳慧(いちやなぎ・とし)さん、当時通産省の官僚だった堺屋太一さんからそれぞれ打診を受けて、計3つのパビリオンのユニホームを請け負うことになりました。

といっても、当時はまだ20代、若い駆け出しのデザイナーです。

「若いのに仕事を頼んでも大丈夫なのか」「あんな少女デザイナーに…」と少し話題になっていた―という裏話があったことを後々、堺屋さんから教えていただきました。


《ユニホームは斬新でありながら、現在でも色あせることないデザイン。タカラ・ビューティリオンはビビッドなイエローのパンツスタイル。ペプシ館は真っ赤なロングコートとミニ丈のワンピース。そして生活産業館では、ネイビーのネクタイを合わせた白のワンピース。新鮮であるがゆえにちょっとした問題もあった》


当時の流行の先端は、ミニかミディ丈のスカート。とてもフレッシュに見えて、メリハリをつけたデザインにしようと考えました。日本人がよりチャーミングに見えて、外国に対して卑下せず、物おじもしない衣装を作りたかった。

最も思い出があるのが、生活産業館のユニホームです。

このユニホームには、コバルトブルーの地下足袋のようなストレッチブーツを合わせました。またワンピースだけでなくパンツルックも作り、これには帽子の代わりに、おかっぱのウィッグをかぶってもらおうと考えました。

「斬新でかわいらしいものに仕上がった」と自信満々でデザイン画を提出。でもこのファッションが通じないのです。

生活産業館は政府系のパビリオンで、コンパニオンたちは、みんな官僚や大企業の重役のお嬢さんたちばかり。だから、「うちの娘に地下足袋なんか履かせられるか」と問題になってしまいました。

それで、しようがないので「地下足袋」という言葉がいけないのだと思い、「ティッパレットシューズ」というように言い換えました。つま先も、〝割れている風〟に見せて。とりあえずそれで収めることができました。

大阪万博は最も成功した万博の一つといっても過言ではないと思います。日本人が外国人と出会うという素朴な体験も新鮮で、インターナショナルな感覚が生まれたのも万博がきっかけではないでしょうか。

この万博が後の日本に及ぼした影響というのはとても大きいものだったと感じています。(聞き手 石橋明日佳)

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