東京特派員

イサム・ノグチと李香蘭の祖国 湯浅博

イサム・ノグチ。このエキゾチックな顔の日系米国人の彫刻家の名前を聞くと、矢も盾もたまらずに上野の東京都美術館に駆け付けた。ノグチ作品に傾倒しているわけではない。ノグチと彼が愛した日本人女性の数奇な運命を思い描いていたからだ。

彼の彫刻作品は、見る角度でさまざまな顔を見せてくれる「黒い太陽」、1つの石がまるで2つの石のような錯覚に誘う「無題」など、ノグチ独特のフォルムが見る者を魅了する。

イサム・ノグチは詩人の野口米次郎と米国の女流作家との間に1904年、ニューヨークで生まれた。日系二世のアーティストとして、日米「2つの祖国」のどちらにも根を下ろすことなく世界を漂泊した。

ノグチと交流のあった建築家の安藤忠雄さんによると、終戦後の日本でも、広島原爆慰霊碑のデザインを依頼されていた。だが、原案を提出後に「アメリカ人だから」と、制作を拒絶されるという屈辱と葛藤に悩んでいたという。

「如何(いかん)ともしがたい孤独感が、ノグチ作品に漲(みなぎ)るあの圧倒的なまでの緊張感につながっていたのだ」

その境遇から、やはり日中「2つの祖国」の間で苦しんだ「女優、李香蘭」、山口淑子とひかれ合ったのかもしれない。淑子は1920年に、満鉄社員の長女として奉天(遼寧省瀋陽)に生まれた。外国人枠のない北京の高等女学校に入学するため、便宜的に中国人の養女になった。

やがて、満州映画にスカウトされ、李香蘭として「支那の夜」がヒットする。終戦の詔勅をラジオで聞いた日、現地紙は李香蘭をスパイ容疑の「漢奸(かんかん)裁判で銃殺刑」と伝えた。裁判で日本人であることが証明され、国外退去になる。

李香蘭から淑子に変わっても、今度は米占領軍の追跡が待ち受けていた。米公文書館の解禁文書には、淑子が戦後の東京でソ連スパイと接触していたと描かれていた。別の文書には、かのスパイが恋心を寄せただけで、「彼女が共産主義シンパやロシア人仲間の一員であるとの証拠はない」と結論付けている。

淑子は51年、夫のイサム・ノグチと渡米準備をする。だが彼女の査証(ビザ)が出ない。困った末にパリに飛んで、現地の米大使館で発給の再申請をしていた。

公電には、淑子の米国に対する宣誓拒否やイサムが米国共産党の機関といわれたハリウッド芸術家・作家組合のメンバーであることが記述されていた。

淑子は東京の総領事館で「米国に誓いますか」と問われ、反射的に「ノー」と答えてしまったからだ。淑子は「日中2つの祖国の間で苦しみ、3つ目の国を愛することはできなかった」と振り返る。

公電はイサムの証言として淑子の英語の解釈に誤解があるとの主張を認め、「ビザの発給が妥当」との結論を伝えている。彼女が発給を受けるのは、申請から1年半が過ぎていた。

米本国で共産党シンパを告発するマッカーシー旋風がおさまったのは、54年末である。淑子は「入国査証が出る頃は、もう疲れ果てていました」と回想した。せっかく入手したビザだったが、淑子は55年にはイサムと離婚する。

やがてイサムは64年、香川県高松市牟礼を訪ね、石匠たちが無心に石を刻む姿に心を奪われた。心の内を空にして、はじめに石の声を聞く。西欧の彫刻技術から入って、日本の石職人による彫刻や作庭の神髄を会得した。

イサムは69年、この地にアトリエを構え、ニューヨークと並ぶ制作拠点とした。建築家の磯崎新が聞いたイサムの言葉が印象的だった。

「自然石と向き合っていると、石がはなしをはじめるのですよ。その声が聞こえたら、ちょっとだけ手助けしてあげる」

磯崎はイサムが「牟礼の地で、何かにふっきれたのだ」と感じていた。(ゆあさ ひろし)

会員限定記事会員サービス詳細