【話の肖像画】デザイナー・コシノジュンコ(81)(11)「弟子」寛斎さんの尽きない思い出 - 産経ニュース

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デザイナー・コシノジュンコ(81)(11)「弟子」寛斎さんの尽きない思い出

〝弟子〟である山本寛斎さん(左)。愉快なエピソードの尽きない人だった
〝弟子〟である山本寛斎さん(左)。愉快なエピソードの尽きない人だった

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《小松ストアーの店を閉め、六本木に自宅兼アトリエを構えたころ。ある一人の男性が〝弟子入り〟を志願。迎え入れることとなる》


とある友人がアメリカに船でたつというので、横浜の大さん橋へ見送りに出かけたときのこと。当時、外国に行くことは珍しく、そこにはたくさんの友人や関係者が集まっていた。

私は表がピンク、裏がグリーンのバラの花がプリントされたジャケットを着ていたのですが、なんだか視線を感じる…。ちらちら見ている男の子がいるなと思っていました。

すると突然、「すみません。そのジャケットの裏側を見せてください!」と声をかけられた。

これが山本寛斎さんとの出会いです。

「デザイナーですよね! アトリエの住所と電話番号を教えてください! 明日行ってもいいですか」―。矢継ぎ早に聞かれて「嫌だ」とは言えませんでした。悪い人には見えないし、品もよさそうだったので、「どうぞ」と答えると、あくる日、本当にアトリエにやってきた。あまりに積極的で驚きました。

寛斎さんはアトリエに来るなり、「今日から弟子にしてください」といって土下座して動かない。どうしていいか分からず、私とあまり年齢も変わらないのに「親の許可がないとだめだわ」なんて偉そうに言っちゃって。でも寛斎さんも「親からは勘当されているので大丈夫です。とにかく置いてください」と引き下がらない。

学生時代は応援団長を務め、はつらつと元気な印象―。仕方がないので、見習いとして雇うことに。それ以来私を「師匠」と呼んでいたのです。聞くところによると、私が装苑(そうえん)賞を取ったことに興味を持ち、日本大学を中退し、自分もデザイナーになって賞を取りたい、と。その後、1967(昭和42)年に、本当に装苑賞を受賞するのだから大したものですよね。結局、うちでは1年半くらい働いていました。

寛斎さんは、エピソードが尽きない人だった。

私が引っ越しをしたとき。荷物もほどほどだったので、業者ではなく生地を風呂敷代わりにして荷物を運ぶ作業を寛斎さんが買って出てくれた。

しかし、寛斎さんは「僕、行きますね」と威勢よく行ったっきり、戻ってこない。変だと思って、探しに出てみると、なんと近くの交番で寛斎さんが捕まっている。風呂敷包みを担いでいたから、盗んできたものだと疑われてしまって。タッパ(高身長)もあって目立ったのでしょう。


《山本氏は2020(令和2)年7月、急性骨髄性白血病により、76歳で死去。その半年ほど前に連絡を取ったのが最後となった》


「ショーをやるから、僕の洋服を着てモデルになってくれないか」と寛斎さんから電話がかかってきた。でも私は「他の人の服は着たことがないの。残念だけど、いくら寛斎さんのお願いでも、私はやらないわ」と打診を断ってしまった。

それが、最後です。寛斎さんは一生懸命、電話してきてくれたのに…。あのとき、断ってよかったのか、悪かったのか。今でもわかりません。でも、私は過去に母と私以外が作った服を着たことがない。それは、勇気をもって断りました。

寛斎さんは日本のデザイナー界で異質の存在。独特な感性を持っている本当に稀有(けう)な人。亡くなったことはとてもショックです。(聞き手 石橋明日佳)

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