日本トライアスロン連合(JTU)は8日、東京パラリンピックの代表内定選手を発表し、女子は運動機能障害PTS5の谷真海(サントリー、旧姓・佐藤)が入った。39歳の谷は4大会目のパラリンピック出場。陸上走り幅跳びから転向したトライアスロンでは初出場となる。
◇
「招致の女神」が東京パラリンピックの代表切符を手にした。パラトライアスロンの谷は代表発表直後、産経新聞の取材に「代表レースに勝ち残れてホッとしている。自分の力を最大限に出して限界に挑みたい」と決意をにじませた。
長年の挑戦が、ようやく実を結んだ。
2013年9月7日。アルゼンチンのブエノスアイレスで、当時31歳だった谷は国際オリンピック委員会(IOC)委員を前に壇上に立った。東京大会招致の最終プレゼンターの大役を担い、訴えたのは「スポーツの力」だった。
大学2年で右足に骨肉腫が見つかり、早大応援部のチアリーダーとして謳歌していた青春は暗転した。手術で右膝下を切断。義足を着けての歩行はおぼつかず、怖さしかなかった。
だが、「神様は乗り越えられない試練は与えない」という母の言葉を胸に、高校時代まで打ち込んだ陸上を再開。地道な努力を重ね、走り幅跳び女子で2004年アテネ、08年北京と2大会続けてパラリンピック出場をかなえた。
11年3月11日、故郷の宮城県気仙沼市が東日本大震災に見舞われた。家族ともしばらく、連絡がつかなかった。多くのアスリートが続々と被災地を訪れ、勇気や元気を届ける姿に「スポーツの力」を感じた。自らを奮い立たせ、翌12年のロンドン大会にも出場を果たした。
IOC委員の心を打った英語での最終プレゼンは、競技人生の軌跡を凝縮させた渾身のスピーチだ。招致活動を通じて知り合った昭輝さんと14年に結婚。15年春には長男の海杜(かいと)くんを生んだ。東京大会を迎えるときには38歳。周囲から運営側への転身を助言され、国政進出の打診も受けた。
谷は首を縦に振らなかった。「自国開催の大会に出場できる可能性があるならチャレンジしたい」。アスリートとしての目標はぶれなかった。年齢も考慮して瞬発系の走り幅跳びから持久系のトライアスロンへ転向。ママアスリートとして4度目の舞台に照準を定めた。
17年には初出場した世界選手権で優勝。順調に見えたが、一筋縄ではいかなかった。想定外の試練は自身の障害クラスが実施種目から外れ、一時は出場資格すら得られなくなったことだった。「残酷ですよね」。持ち前のポジティブな感情を失いかけた。ルール改正でクラス分けの基準が変わって救われたが、障害が軽い選手と同じクラスで出場権を争うことになった。
新型コロナウイルス禍による1年延期で、進退を悩みもした。「家族との時間を犠牲にしてきた。あと1年は長い…」。代表レースからの離脱も脳裏をよぎった。今年2月には、昭輝さんに胃の悪性リンパ腫が見つかり、約1カ月の放射線治療を支えた。乗り越えた試練は数え切れない。
コロナ禍で海外遠征が難しい中、国内で開催される大会に集中した。夫がライバル勢の情勢をチェック。5月に横浜で開催された国際大会での健闘で、出場権獲得をほぼ確実にした。家族で手にした切符だ。
本番の会場がある台場は、手術後にウィッグ姿での就職活動を実らせた職場がある慣れ親しんだ場所。あとは前に進むだけ。「Be Safe(安全に)! Have Fun(楽しんで)! Go Fast(そして速く)!」。家族のあい言葉を胸に東京の海を、ロードを、全力で突き進む。(田中充)