本郷和人の日本史ナナメ読み

古文書と様式㊦鎌倉幕府の草創担った文官

親能の妻の姉妹は源義朝とのあいだに朝長(頼朝のすぐ上の兄)をもうけています。また、義朝の没後だと思われますが、中原某と結ばれ、久経という男子を産みました。この久経も頼朝に仕える文官となり、京都の治安維持の大役を担っています。また親能は妻の姉妹の子(つまり甥(おい))である大友能直を養子としていて、親能が頼朝から得た所領は、みな能直が受け継いでいます。もちろん、能直は豊後・大友氏の初代で、養父から文人の素養を受け継いでいたのでしょう、頼朝からたいそうかわいがられています。能直の嫡子が親秀(親能の一字をもらったのでしょうか)、親秀の娘の1人は何と朝廷の奥向きに仕えて、後嵯峨天皇との間に内親王をもうけました。これも、大友氏が根っからの武家であったらあり得ない事態かもしれません。

なお、おまけその1ですが、大友家の血を引いた内親王のお名前は愷子(がいし)内親王。伊勢の斎宮を務めています。斎宮が伊勢に赴くときには、伝統的な行列を組んで雅(みや)びに下向します。これを群行といいますが、武家が実権を握るにつれて行われなくなります。最後に群行を行ったのが、愷子内親王でした。また、内親王は美貌の方で、京都に帰ってから兄の後深草上皇と結ばれた、というロマンスが伝わっています。

おまけその2。吾妻鏡、頼朝の時期に、美作(みまさか)蔵人(くろうど)朝親(ともちか)、という人物が出てきます。なかなかの発言力をもっているらしいのですが、調べてもどういう人かよく分からない。承元3(1209)年には朝親の妻が出奔し、小鹿島公業(おがしま・きみなり)の家に駆け込んだ。妻を返せ、返さぬの争いは大きな騒動になり、朝親の側には甲斐源氏の一党が、公業の家には三浦の面々が駆けつけ、あわや合戦の一歩手前まで行きました。この時は将軍が仲裁に入って事なきを得ましたが、これを見ても朝親はかなりの重要人物だったろうに、出自が分からない。

それで、このことをあるときに、系図研究のエキスパート、宝賀寿男氏に話したのです。すると氏はたちどころに、中原広季の甥に朝親という人物がいる。それではないか、と教えてくださいました。そこで『中原系図』をみると、たしかにそうであるらしい。彼もまた親能を経由して、鎌倉幕府に仕えた文官ではなかったか。そして武田などの甲斐源氏と縁を結び、幕府政治で活躍した。やがて若狭国本郷に所領を得て、本郷氏を名乗った。そう、彼こそは、本郷家の初代さまだったのです。

■美作蔵人朝親の血縁?

武田勝頼 1546~82年。美作蔵人朝親は甲斐源氏に婿入りし、それゆえに源を名乗っていたと思われる。その甲斐源氏の棟梁(とうりょう)が武田家で、頼朝旗揚げ時、武田は頼朝と連携は取っていたが、けっして「頼朝に従っていた」わけではない、と強調する彦由(ひこよし)一太という研究者がいらっしゃった。彦由先生の説によると、富士川の戦いなどは実質、武田勢が平家軍を打ち破ったもの、という。名門武田家は勝頼の代で滅び、文書も伝わっていない。文書が伝来していれば、そのあたりのことがもっと鮮明になったはずである。

【プロフィル】本郷和人

ほんごう・かずと 東大史料編纂(へんさん)所教授。昭和35年、東京都生まれ。東大文学部卒。博士(文学)。専門は日本中世史。

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