《画家になるため美大を目指して絵を描き続ける高校生活。だが一転、母と姉が先を行くファッションの道に進むことになる》
ファッションには生まれたときからどっぷり漬かっていて、切っても切り離せない関係。でも、仕事にしようとは毛頭考えていなかった。というのも、文化服装学院(東京)に進学した姉が、コシノ洋裁店を継ぐだろうと考えていたためだ。「私は別の道に進むわ」。そう思っていた。
ところが高校2年生のとき、転機が訪れた。
姉が文化服装学院で師事していたスタイル画の原雅夫先生が岸和田の実家を訪れたのだ。原先生は、家に飾っていた私の絵を見るなり、「うまい。いいじゃないですか。どうしてお母さんと同じ方向に進まないのですか」とぽつり。つまり、洋裁学校にはいかないのか、と尋ねてきたのです。
ファッション界の著名な先生の言葉に、驚きと戸惑いを隠せない。なぜ洋裁の道に進まないのか―。姉の後をついていくのは嫌だという思いが強いだけだったのかもしれない。結局は、母と姉に反抗していたのか…。
翌日、実家に1泊した原先生が「ジュンコさん、パレットナイフを持っているでしょう。貸してくれますか?」と言ってきました。すると先生は、ぼろっとはがれたお風呂の壁をテキパキと器用に直してくれるではありませんか。昨晩入浴した際、気にしてくれていたようです。
私が気にも留めていなかったことをていねいに修理してくれている―。その姿を見て胸が熱くなりました。「この先生なら、本心でアドバイスをしてくれているのかもしれない」。第三者の違った角度からの助言に、置かれた道を歩んでみようと、決心しました。ファッションの道を進むのは、やはり宿命だったと、今ならそう思えます。
《文化服装学院に入学後、クラスメートとの温度差を感じることになる》
文化服装学院に入学後は驚くことばかりでした。
当時の洋裁学校といえば、花嫁修業のために通う場所、というような雰囲気。だから、クラスメートは、だれもきれいに直線と円が描けなかった。フリーハンドでササっと描く―そんな〝当たり前〟のことが誰もできないだなんて…。衝撃を受けました。
そのため、スタイル画の授業では、初回からアシスタントを務めました。先生から「ジュンコさんちょっと手伝って」と言われ、みんなの絵を見る係を担っていました。
布を裁断するときも同じです。みんなまっさらな生地を切ることを怖がった。私は、実家で布を切る場面は毎日見ていたし、母がものすごいスピードで裁断することも知っていた。「なにもたもたしているの」と、代わりに私が切っていましたね。
やはり環境の差は大きかった。
私の家には四六時中、職人さんがいた。「これを縫って」といえばすぐにミシンを動かしてくれる。生地を輪っかにして筒状に縫い、上側にゴムを通して縫い上げるとあっという間にギャザースカートができる。どこをどのように縫ったら何ができるのか。入学当時の私はすでに知っていました。
そんな恵まれた環境で育ったことに、やはり感謝しなければなりません。(聞き手 石橋明日佳)