《姉、ヒロコさんの後を追うように、進学校・大阪府立岸和田高校(岸高)に入学する》
体育と美術だけは学年でいつも1番でした。でも、お勉強はてんでだめ。母も「勉強しなさい」とは一度も言わなかった。それがガラッと変わったのが中学2年生のときでした。母から「あんた、絶対に岸高やで」と突然、告げられたのです。
岸高は府立の進学校。中2当時の私の成績では、到底合格には及びません。なぜ岸高だったのか―。理由は簡単、うちの洋裁店が岸高の制服の指定店だったためです。
合格しないと、洋裁店の女主人として母として、メンツが立たない。それもそうです。お客さんや近所の人から、「あら、お宅のお嬢さん岸高滑ったん?」なんて言われた日には、目も当てられない。「執念で入ってもらわないと困る」。地獄の勉強の日々が始まりました。
母は「入りさえすればいいから」と、家庭教師を連れてきました。毎日のように、家に帰ると家庭教師が待ち構えている。それが嫌で嫌で、遠回りをして下校してみたり…。でも、中学から家はすぐそこ。結局すぐに帰宅してしまい、夕方から深夜までみっちりとしごかれました。
しかし、私自身も合格しないと立場がないという思いはありました。姉が私立の女子中学からやすやすと岸高に合格していましたからね。
地獄の特訓のかいがあり、なんとか岸高に合格。姉と入れ替わりで入学することになりました。
《高校入学後は美術部に入部。当時は画家を目指していた》
やはり小さいときから絵を描くことが好きでした。入学後、美術部に入りながら、外部でも油絵を習っていました。美大に入って画家になろうと、夢に向かってまっしぐらでした。
高校では、2、3年生のときに文化祭のポスターを描きました。今でも高校に大切に保管されていることを知り、とても懐かしく、うれしく思います。
外部では、洋画が専門で行動美術の高須国之先生に師事。学校でも学外でも毎日もくもくと油絵を描いていました。
そんな折、大阪市立美術館で開催された展覧会で、出品した油絵が入選したのです。高校生が受賞することは珍しいことだったそう。
その勢いで、もう気分はすっかり画家に。まずは格好からということで、ベレー帽を斜めにかぶって、チェックのフレアスカートをはいて…。そうすると不思議と画家さながら。天王寺の美術館や公園にスケッチに行くときは必ず、画家気分で出かけていました。
当時はとにかくもくもくと絵を描いていましたから、絵の具の減りがとても早かった。お気に入りの色ほど高くて、すぐなくなってしまう。
そんな絵の具代を稼ぐために、描いた絵を近所の喫茶店にレンタルしていました。月に1枚いくら、という形で。今、はやっている「サブスクリプション」みたいなものですね。
洋裁店のお客さんが来店した際に「今回の展覧会で賞を取ったんですよ」と売り込むと、「じゃあちょっと貸してもらおうかな」というふうにとんとん拍子に話が進んで。高校生といえど、ある程度腕を認めてもらえていたのかなと思います。(聞き手 石橋明日佳)