書評

『ブリーディング・エッジ』トマス・ピンチョン著、佐藤良明、栩木玲子訳 9・11後のNYを多角的に

1963年のデビュー長編『V.』から半世紀、現代アメリカ文学最大の巨匠が巨大な第8長編を放った。タイトルは、ソフト面でもハード面でも依然リスクが伴う最先端テクノロジーを指す。テーマは9・11同時多発テロだが、そこはピンチョン、一筋縄ではいかない。2001年、いわゆるインターネット・バブルが弾(はじ)けた直後、テロ前後のニューヨークを、同市民である著者が多角的に浮かび上がらせる。

主人公は、ユダヤ系女性で企業の不正検査士を務めるマキシーン。夫は世界各国の商品の値動きをほとんど超自然的に察知できるホルスト。2人には長男ジギーと次男オーティスがおり、このヒロインはママ友付き合いも悪くない。

その意味では典型的な家庭小説として始まる本書が、いきなり探偵小説ないし国際謀略小説の色彩を帯びるのは、マキシーンの友人マーチの娘婿で大富豪のゲイブリエル・アイスが率いる巨大企業周辺から、中東がらみの資金流用スキャンダルの噂が流れ始めてからである。社内で不正に関与した元シリコン・アレーの起業家レスター・トレイプスが不審な死を遂げ、その解決のため異常なほど嗅覚の鋭い男やあらゆるにおいを分析する嗅覚レーザーが導入される。

さらに、同社を主題にした作品も制作している映像作家からヒロイン宛てに送られてきたDVDには、どう見ても巨大旅客機を撃ち落とす算段をしているとしか見えない一団が映っていたとなれば、ピンチョン的パラノイア(陰謀妄想)の面目躍如といったところか。

最大の見せ場は、マキシーンの友人たちが作成した独自の電脳空間「ディープアーチャー」(「出発=ディパーチャー」とかけている)だろう。わが国の誇る大友克洋の漫画『AKIRA』や士郎正宗と押井守のアニメ『攻殻機動隊』、小島秀夫のゲーム『メタルギアソリッド』の影響が明記されるこの魅惑的な仮想現実上の〈避難所/聖域〉において、やがて主人公は陰謀の中で落命したはずの連中、すなわち死者たちと対話すら交わす…。

9・11以後の多国籍陰謀網からいかに逃れるかをめぐる最も深い思索が、ここにある。(新潮社・4510円)

評・巽孝之(慶応大名誉教授)

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