話の肖像画

デザイナー・コシノジュンコ(81)(3)「手作りバッグ」を母の店に並べたら

母、綾子さんが大阪府岸和田市で営んでいた「コシノ洋裁店」
母、綾子さんが大阪府岸和田市で営んでいた「コシノ洋裁店」

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《父は先の大戦で戦死し、母は洋裁店を切り盛りしながら、3姉妹を育てた。もともと、祖父が営んでいた呉服店を母が洋裁店に。普段着から、デパートや学校の制服など、さまざまなオーダーを受け付け、商店街をにぎわす人気店だった》

母は4姉妹の長女で当時でも女性が仕事をすることが当たり前の環境で育ったようです。父を戦争で亡くし、稼業は母が、そして家事については祖母が担っていました。母が父役、祖母が母役といったところでしょうか。

母はとにかく働きづめの毎日。朝から夜中の3時までずっと。おかげでお店はよく繁盛していました。

でも、仕事ばかりしていたわけではありません。遊ぶことにも熱心でした。例えば、社交ダンスや長唄の習い事。家に先生がやってきて、私もレッスンに参加したことがありました。レッスン後、洋裁の営業をかけたり…ちゃっかりしていますよね。

母は人生のバランスが取れた人でした。仕事にも遊びにも全力投球で、いつも100%以上の力で動いていた。普通の「お母さん」とは違っていたかもしれませんね。

《自宅=洋裁店。従業員や顧客らが家にいるのが常だった》

家にはいつも縫製を担当する「お縫子(ぬいこ)さん」がいました。夜になったら、1階の仕事場を片付けて、母やお縫子さんとともにご飯を食べて、布団を敷き、寝る。忙しくしていましたが、寂しい思いや切なさは感じませんでした。ただ、困ったことがありました。

四六時中働く母に、学校の連絡事項を伝えることが難しかったのです。学校にお金を持っていかないといけない、授業で必要なものがある―。伝えたいのになかなかチャンスがつかめない。お客さんがひっきりなしにやってくるから、個人的な話ができないのです。

いざ、「今ならいえる!」と思っても、「ちょっとこれ持ってきて」と手伝わされる始末。らちが明かないので、最終的には請求書を用意して、催促したりもしました。

《「お手伝い」をすることで、知らず知らずのうちに商売の片鱗(へんりん)に触れていた》

店の手伝いは当たり前のようにやっていました。好きで手伝っていたのではないですよ。みんな忙しいので、「仕方ないなあ」と思って。でも、小学3年生のとき、思いがけない出来事がありました。

店にはいつも誰かがいないといけないので、お昼どきは私が店番をすることもあった。その日も「ジュンちゃん、お店見といてね」と頼まれて、従業員たちは店の裏に入ってお昼ご飯を食べていた。

その間、余っていたウールの生地にちくちくとファスナーを縫いつけて、バッグを手作りしてみた。結構すてきで、出来が良かったので、ちゃっかりしている私は、店に並べてみることにした。

すると1人の女性が「こんにちは」と店にやってきた。お手製のバッグを手に取ると、「かわいいわね。これ、なんぼ?」と聞いてくるではありませんか。

子供が作ったものに「なんぼ?」といってくれた! ドキドキして胸がいっぱいになった。

結局バッグは売れませんでしたが、とてもうれしかったことを覚えています。(聞き手 石橋明日佳)

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