本郷和人の日本史ナナメ読み

古文書と様式㊤頼朝の成功、鍵は行政力

由比ケ浜で放生会(ほうじょうえ)を行う源頼朝を描いた月岡芳年の浮世絵「大日本名将鑑右大将源頼朝」(静岡県立中央図書館蔵)
由比ケ浜で放生会(ほうじょうえ)を行う源頼朝を描いた月岡芳年の浮世絵「大日本名将鑑右大将源頼朝」(静岡県立中央図書館蔵)

源頼朝のすごい点は、敵との戦いが本質である軍事政権であっても、それを維持するためには文官が必要だということをちゃんと弁(わきま)えていたところだと思うのです。治承4(1180)年8月の伊豆における旗揚げの直前に、彼は藤原邦通という人を雇用している。邦通は京を離れて「遊歴」していたが、安達盛長の推挙で頼朝に仕えた、と『吾妻鏡』にはあります。

戦後占領下の日本では、ハクを付けるためにアメリカに渡った人がいました。こうした人たちは現地でしっかりとビジネスや研究をするために生活基盤を築くことはなく、短期間で日本に帰ってきた。それで、「アメリカにしょんべんをしに行っただけ」というので、「アメしょん」と呼ばれたそうです。もはや死語ですが。

それで、右の邦通という人物ですが、生没年も系譜も全く不明です。どこの馬の骨か分かりません。これといった子孫も残していない。とすると案外、「オレは京都で暮らしてたんだぞ」というのが売りの、「京しょん」だった可能性もある。それでも字が読めない、書けないの関東武士よりマシだ、ということで頼朝は雇い入れたのではないでしょうか。

8月17日、伊豆を実質的に支配していた山木兼隆(平家一門)を討ち取って、頼朝の旗揚げは一応成功します。するとわずか2日後の19日、頼朝は早くも文書行政を始めました。兼隆の与党で、伊豆国蒲屋御厨(かばやのみくりや)を領有していた中原知親という人物の権限を、文書を以(もっ)て剝奪したのです。「藤原邦通が奉行した。これが関東における施政の始めである。その文書は次の通り」として、『吾妻鏡』は一通の文書を掲げます。なお、ここの「奉行」とは、藤原邦通が文書を作成したことを意味しています。

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