「ネイバーフッドシティ」の条件と都市計画のゆくえ

もちろん、礼儀を欠くというつもりではまったくなく、変えるのは「空き家だけ」でよくて、合意形成の相手は空き家の持ち主だけでいいからです。説得すべき相手が増えるほど、喋り方や説得の方法などすべてが中庸なものになってきますが、持ち主ひとりに絞って対話すれば相手の悩みや解くべき問題が見えて、その人向けの方法が提案できます。そうすることでサクッとものごとが進みます。最初に取り組んだプロジェクトでは、1年足らずでひとつの空き家を新しい地域拠点として再生させることができました。

なので、1人ひとりの気持ちを変えれば都市が変わっていくという意味では、都市にはとても「やわらかい」部分がある。とはいえ、同じ方法で全員に話をして街が変わるかというと絶対変わらないし、1カ所だけが変わっても都市全体が変わるということはなかなかないので、同時に「しぶとく」もあります。つまり、いまの都市を「15分都市」に変えるには「ここがやわらかいな」というところに入っていって、少しずつ変えていくしかないんです。

余った空間を「読み替えていく」

コンパクトシティとは、簡単に言うと中心点をひとつ定めてそこに集中投資をするという戦略です。公共建築や病院をまとめて「中心」の魅力を上げれば、住宅などの周囲の機能が寄ってきてコンパクトになるでしょうという考え方ですが、その「中心」はひとつに絞りきれません。なぜなら、中心であろうが周縁であろうが、空き家はあちこちに出てくるので、そういう住宅地のほうが、やわらかくて変えやすい可能性があるからです。つまり、中心部に集積させていくことをコンパクトシティの前提としてしまうと、このようなほかの可能性を見落としてしまうかもしれません。

コンパクトシティは悪いわけではないですが、「ここを中心にする」と決め込んで、土地を買い集めながら必要な施設を増やして30~40年かけて都市をつくってもしょうがないと思うわけです。それよりも、あちこちに増えてくる余った建物に「今年はここに病院を、ここには保育園をつくりましょう」というように、都市に必要な機能を柔軟に入れ替えていくほうが、暮らしてる人の豊かさは向上するはずです。

都市をOSに、都市に必要な機能をアプリに例えるとすると、余った空間を柔軟に使い倒すさまざまなアプリが、民間の手で開発されていけばよいと思います。とはいえ、仮に空き家をオフィスに変えられるアプリができたとしても、当然それを使えるのはアプリをダウンロードしてる人だけになってしまいます。つまり、「アプリ化」をひたすら進めると、排除されてしまう人が出てくる可能性があるわけです。なので、アプリを開発するときにはそれを使えない人やそこに乗れない人たちへの配慮をきちんと組み込んでおかないとまずいですよね。

ぼくは、都市は万人のためにあるものだと思っています。日本ではほとんどの道路を無料で使えますよね。つまり、都市というOSは本来は無料で万人が使えるものとしてあるはずなので、アプリがそれを使ってただ稼ぐだけというのはズルいですよね。公共空間である都市を私的な空間に変えていくという、ある種の収奪行為だと思います。

だからこそ、アプリはそれを使えない人にもきちんとサービスするべきだということです。利用者数のうち何割かはアプリ外の人が使えるようにするなど、ある種機械的に、思い切りよく弱い人向けのサービスをアプリのなかにビルドインしていくべきだと思います。

コミュニティと隣人愛

自著の『平成都市計画史』のなかで、コミュニティは「土地」で結びつく仲間で、アソシエーションは「目的」で結びつく仲間だ、という整理をしました。収入も価値観も異なる人たちが土地を介して結びつくコミュニティを田舎くさいものと感じる人もいると思います。もちろん、暮らしのすべてで付き合いが強制されるようなものではなく「必要な事柄について同じ土地に住む人たちのなかで、資源を融通し合って助け合う関係をつくっていく」という程度のものがコミュニティだと考えています。

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